操縦の実際


はじめてエレクトリック・ギターを手にしたとき、シールドをさしてアンプのスイッチをONにして、スピーカーから「ウワーーーン」という開放弦の唸る音が振動のように聞こえてきて、そっと弦を指ではじいてみると、ぎゃーん、というギターの音が、確かにスピーカーから放出されて鳴り響き、部屋中に満ちるのを聞いて「うわーこれだけなのか」と思った事を思い出す。


「これだけ」というのはつまり、まだギターを手にしていない数ヶ月の間、事あるごとにさんざん頭の中で想像してきて、イメージトレーニング、というか、単なる妄想を、何度も何度も脳内の記憶領域に重ね書きしてきたような、まさに文字通り、夢にまでみたような、あのエレクトリック・ギターというシステムの全貌を、遂に今、目の前にしていて、両手でしっかりと抱きしめ、一通りの状態を現実に手の内におさめた事で、はじめて湧き出てくる感慨である。


「たったのこれだけ」である事の驚き。そこにあるのはただの鉄製の弦と、ピックアップと、ラッカーの光沢をたたえた木製のボディと、赤くLEDの光ったアンプと、金属的なノイズを唸るように低く放出し続けているアンプ。これだけのセット。これだけの事で、あの演奏やこの演奏が実現しているのか、という驚きである。


自動車をはじめて運転するときの感触もある意味、それとよく似てるかもしれない。教えられたように、まず左足でクラッチ踏んで、エンジンをスタートさせて、ギアを入れて、ゆっくりとアクセルを踏み込みつつ、おそるおそるクラッチを戻し始めると、確かに自動車は、本当に、自重をかすかに軋ませつつ、音もなくゆっくりと動き出すのである。そのまま加速、減速、旋回、すべて可能なのだ。これだけの事で。これだけの組み合わせだけで、それが実現する事の驚き。


なんでこんな事を書いているかというと、はじめてVestaxのVCI-100を触っているからです。曲をDeckAで再生させる。モニタで聴く。DeckBに別の曲を送る。ヘッドフォンで聴く。ピッチ合わせる。セットキューする。MIX!!あとEQさわる!…そういう事をやっている。いや、まだまったく何もやれていないのだが、そういう事が今、遂に目の前に、全貌をあらわにしている。で、やれることを、一通り試してみて、それでとりあえず出てくる感想というのは、やはり「たったのこれだけ」か…という気分だったりするのだ。たったのこれだけの事から、DJたちはあの目眩くような素晴らしいMIXたちを生み出しているのか!と…。


まあ美術でいえば、画材というのも、そういう風な感触をはじめて絵に触れる人に与えるものかもしれないとは思う。油絵の具セットとか、最初はまさに「本当にたったのこれだけ?」…という気分にさせてくれるようなものかもしれない。


道具というものが醸し出す、そこを支配しているある手順とかルールとかしきたりみたいなものの予感というのは、それに取り組んで、それの内側で良くなったとか悪くなったとかいって喜んでいても意味が無くて、そういうのをなるべく早く相対化して、それがもはや余剰に感じられたり拘束に思えたりしたら、とっとと捨ててゆくとかすべきな、まあそういう事ではあるのだが、少なくとも最初は、その枠組みにはめられざるを得ない、というところは、面倒くさいところではあるが、しかし僕など個人的には若干、ある種の愉悦感をおぼえてしまうところもある。そういう風に無理矢理受け入れさせられて、ひとまずやらされるのが嫌いじゃないのだ、などというと変質者的だが、まあ僕はその観点ではある意味ヘンタイである。


でも実際、自動車の運転とかやぱり魅力的だよなあと思う。さっき文章で書いているうちに、思わずその面白さがよみがえってきてしまった。。AT車ではなくて、MT車がすごく魅力あるのだ。クラッチを繋いだり切ったりする事が操縦の生命線であるところに強く惹かれてしまう。単純にパワーをかけ続けるようなつまらないものではなくて、非常に細かい手続きで、力を抜き、エネルギーをやり過ごす能力が要求されるところが素晴らしいのだ。人間の事などお構いなしに駆動しているエンジンに対して、状況に応じた、その都度のもっとも適切なギア比を提案してあげるのだ。それで、それ悪くないね、と言われたら、ただちにそっと適用してあげるのが、MT車の操縦なのである。もしかしたら手綱で馬を走らせる繊細さに近いのかもしれない(乗馬した事ないからわかりませんが)いや実際、僕も車に乗らなくなって10年とか経つけど、でももし公道を走らないで、自動車というものが遊技スペースみたいな空間を好きに走って良い物としてこの世に存在していたら、もう毎日でもその乗り物で遊びたいくらいである。僕はとにかく、公道を交通ルールを守りつつ走るのが死ぬほどイヤなので、結果的に自動車に乗れないのだ。自分ひとりで遠いところまで行けようが、気持ちの良い景色を見ながら疾走できようが、それが公道で公道を走るための最低限の意識を要求される時点で、もうアウトなのである。自動車は好きだけど、自動車と人間が集まって構成してる世界全体が死ぬほど嫌い、と言うこと。


だったら、勝手に走れるサーキット場とかに行けば良い?カートとかをやれば良い?…いや、それだとまた、全然意味が違ってしまうのだ。第一、そういう風に自由に走れる場所に行くだけでも、公道を使って移動しなければいけないのだし。