感情の器/絵画の器


「色」と「かたち」というのは、そう明快に分割できるものではないようにも思う。それをわざわざ分割して考えるというのは、その時点ですでにかなり抽象的に単純化した話なのではないだろうか?しかし「色」よりもかたち」の方が、我々が現実で利用する道具的なものに近しいものだ、というのだとしたら、それはわかる気がする。実際のところ、現実の世界で青とか赤とかいうとき、それって確実に(記号とかコノテーションがどうこうとかでもなく、それ以前で)「かたち」の事だと思う。目の前に「色」が広がっている、というとき、それはかたちの事にほかならないのではないか?普通、色そのものなんて、それだけを思い浮かべる事はできないのではないだろうか。思い浮かべる事ができたら、それは、すでに絶対かたちになっていると思う。当然、色だけをみるという事も不可能である。川村記念美術館でみたニューマンの作品も、(それをあえて言葉で書くのであれば)どうみても「色」ではなくて「かたち」であった。太陽の光も、太陽の光だと認識した時点で、かたちである。ゴッホの黄色は、その認識を苦い思いで受け入れてから塗布された、いわば押し下げられたフェーダーではなかろうか?(しかしそのおかげで、異なる何かと猛烈な勢いで接続され、驚くべき目的の発見を実現するだろう…まあこれは単なる妄想だが。)絵画とは切り上げられたものであり、絵画とはフェードされたものであり、絵画とはかたちの事ではないだろうか?


さらに続けると、人間が認識できるものとしての「現実」とか「世界」も、避けがたく「かたち」なのだろうけど、じゃあそれでもわざわざ「色」というものが別途、あって、「色」を「かたち」から分割して考えたい、というとき、その欲望はどこから来るのか?というと、もしかするとそのとき、特別に取り分けておきたい「色」というのは「感情」の事なのではないだろうか?…というのは単なる今ぱっと思いついたことでしかないのだけれど。…でも、心の中での感情のひとまとまり、みたいなものが湧き出たときに、それを、ときには「色」と呼んで区別したいという欲望が生成するのではないか?と想像した。感情というのは記憶と複雑にリンクされたものだろうから、たまたまそこに浮かび上がったある感情を「色」と定義して宣言する事で、はじめてそこに時間みたいなものの気配も不可視的に埋め込まれていき、ここで「色」と名付けられた<感情>オプションを付与された「かたち」にその効果としての奥行きが生まれ始める。。


…でもこれだとあまりにも単純過ぎるかもしれない。感情の器が「色」でなければならない理由がない。「かたち」に感情が注がれてたってかまわないのだし、いや僕は実際今まで、かたちに感情を注いだ事は無いのだろうか?…というか、この考え方だと絶対「分割可能」なモデルにしかならないので最初の考えの構造自体が駄目である可能性が高いが。というか、色とかたちが構造としてはほぼ同じ属性として扱い可能、という前提がないと、これらの話はすべて無効だと思うが。