コンサート/作品

「即座の反復(繰り返し reiteration)はしばらくたってからの反復(再現 recurrence)」と区別されてきた。両者はふたつの異なるレベルで連続性を組織する。繰り返しは差異を強調し全体的な構造のより包括的な関係を分節する。前者は時間の瞬間から瞬間の経過に同化し、後者は熟考のための時間を安定化する傾向にある。こうして反復は音楽的な全体を過程あるいは客体の方向へ向けて、生成あるいは存在の方向へ向けて様式化する」

という文章がすごく面白い。「レコードの美学」に出てくるカーペンターという学者の論文であるが、ここでは要するに「反復」の効能みたいな事が語られている。「反復は小さなレベルではパターンの紡ぎ出しに、大きなレベルではその収束に寄与する」この認識の形態が既に時間認識を前提としているのである。コンサートという制度がもたらしたものは、もともととらえどころの無かったはずの音楽に対して「一曲(ピース)」といった「数え方」単位の提示であり、その均一に流れる時間に沿った「音楽」そのものを認識するための方法の提示であった。(というか、細かい反復はリズムだろう!と早合点したのだが、ここではそういう話ではない。でも時間認識の超圧縮体験がリズムを聴くという事だとも言えなくも無いだろうし、その意味では音楽が音楽のかたちになったもっとも原子的な部分が、この反復というヤツなのだ。)

聴いている現在がこれまでに聴いた、そしてこれから聴くあらゆる音と一つの綜合的な関係を結んでいるという認識は「作品」に独自であり、コンサートは集中的な聴衆というそのために最も適した方法を提供する。時間的な展開が本質となるような構造をもった形式が現れ、全体を聴くことが理解の必須条件となったからである。

コンサートという枠組みが、その中で感受できるすべてを「作品」と定義付け可能にした、という事だ。というか、なぜか結果的にそういう事になってしまったのである。細かい理屈云々以前に、あそこでの出来事が「音楽の作品」なのだ。まさに制度の誕生という感じ。音楽も絵画も、数万年前からあるのかもしれないけど、こうした文章を読むと、結局僕たちが知ってる音楽や絵画とは、150年かそこらの歴史しかないようにも思えてくる。というか、そのくらいのスパンでしか認識していない、と言った方が正確かもしれない。

コンサートによって音楽は物理的な音響以外の側面から自由になった。我々はそこに行きさえすれば何でも聴くことができる。あるいは聴くことしかできない。人はそこで耳だけを持つ存在に変わる。観念上は音楽家の姿が見えてもいけない。彼らはあくまでも音楽に仕え作曲家に仕えるのだから。しかし現実的には彼らこそがコンサートの花形であり、聴衆は暗くなった客席から明るい舞台に立ってその場限りの演奏に興ずる彼らを眺める。名人芸の崇拝につながる彼らのあからさまな現前自体、既に音楽への集中を妨げ、真の感覚的な知覚を歪めるかもしれない。自律性は最終的にはこうして演奏者の消滅によって初めて現実化されるのだが、もちろんそうはならなかった。そうした理念を抱きつつそれは音楽愛好家にとっての「神殿」となり、いわば理想的な聴衆は演奏者を"見て見ぬふり"をした。「見えないオーケストラ」は音楽を純粋な音響性に還元するレコードによって実現されることになる。この機械的で現実的な自律性は、もちろん観念的な自律性をは相容れない。

…という事で、観念をもって「作品の自律」をうちたてる前に、テクノロジーがきわめて「機械的で現実的」にそれを実現させてしまった、という事で、そういう意味で、コンサート会場に出かけるというのはいつでもある種の懐かしさ、過去の残滓を確認したいがために、その場所へいそいそと出かけるのかもしれない。


…このあと、いよいよ複製技術に関しての話になり、アウラとかフェティシズムとか、ベンヤミンとかアドルノとかがいっぱい出てくる。…正直、結構むずかしい。先週はすごいスピードで読み進んだのに、今週はまだ30ページくらいしか進まない。同じところを何度も読むからだが、でも何度読んでも同じことしか書いてないんだから、そういう箇所は適度な判断で、あきらめて一旦とばして次に進んだほうが良いと思って、今日からまた少しスピードアップして読み進み始めた。