植物を描くということ


植物というのは、目に見えないスピードでゆっくりと動いている。静止しているように見えても、蔓は、絡みつく事ができるような、つたうべき何かを、何十時間もけかけて、休むことなくひたすら盲目的に探りつづけている。(超高速再生のカメラでそれを早送りの映像で見る事は可能だ。それで見ると、蔦がまるで「生き物」のようにゆらゆらと上下左右に動いているのを確認できる。しかし言うまでも無くそれは早送りされた映像でしかない。早送りされた映像は、早送りされているものでしか無くて、現実の動きとはまるで別だ。植物はおそらく、そのような映像とはまるで別の感じで動いている。というか、そのスピードは超・低速であるがゆえ、人間がまとまった知覚できるイメージとして捉えられない。)


だから、そのスピードでしか実現できない運動の独自性があるのだと思う。というか、植物の形態というのは、その運動の独自性がかたちづくったものである。もし、植物のかたちを「面白い」と感じたのなら、それはおそらく、その形態だけが面白いと思っている訳ではないだろう。というか、形態が形態だけで面白いなどという事は普通あり得なくて、形だろうが色だろうが、何でもそれ以外の記憶とランダムに結びついたりほどけたりするから、それらのありさま全体を面白いと思ってるのだ。


だから植物のかたちを「面白い」と感じたのなら、おそらくその形態が想起させる「運動の予感」、というか、これはきっと、目に見えないけどこれまで何百時間もの間、ゆっくりだが休むことなく続いてきたおびただしい物量の運動が積み重なった末の結果としての、こういうかたちをしているんだろうなあと、そういう感触を、無意識のうちに一挙に感じさせられるからではないのだろうか?


となると、そのような運動の気配/記憶を濃厚にまとった形態を有している「植物」というものを、絵のモチーフにする、というのは、とても面白い試みなのだろうし、ある意味、理に適っている試みなのかもしれないとも思った。そのイメージを中途半端に人間に優しく改変してしまう映像なんかよりも、植物というのをもっとも植物らしくあらわせる媒体としては、もしかすると絵画が最適なのかもしれない。


要するに、何かが絵に描かれているというとき、そのイメージをみて、かたちの記憶との相似で「何かが描かれているらしい」とわからせるよりも、運動の痕跡というかスピード感、を思わせるもので「何かの動きとシンクロしてるっぽい」と、絵画がそれを欲望しているかのように感じさせられるような感じをあたえる事ができると。動きが、目に見えないほど低速で展開されているからこそ、それが可能なのではないかと。