久々に家から徒歩で東京拘置所のほうに向かって荒川沿いに出て千住新橋を渡った先の図書館まで行く。一時間半くらい。かなり寒い。よく晴れているが、風が身を切るような冷たさで吹き付ける。


東京拘置所の、以前はあったはずの塀が、いまはすっかりなくなってしまって、どれが拘置所施設で、どれがそうじゃないのか、見ただけではよくわからない。すぐ目の前の、フェンスの向こうにある運動場で、何かの球技をやっているけど、あれらの人々はどう考えても受刑者ではないはずで、しかしどういう立場の人だからあそこで運動しているのか、よくわからない。普通の施設なら我々もそこまで入っていけるのかというと、フェンスの向こうには関係者外立ち入り禁止となっていて、施錠扉がある。たぶんその場所と反対の方角にある官舎の施設なのかもしれない。


その道沿いに用水路があって、カモが数羽いて、柵に寄りかかった子供が、ナイスショット、ナイスショット、と繰り返し呟きながら、パンをちぎってひたすらカモに向かって投げている。パンが落ちると、カモは、すーっとそちらへ移動して嘴でついばむ。かなり早く、何度も何度も投げるので、そのうちカモの動きが鈍くなってくる。それでもかまわず、ぽと、ぽと、と、パンが水のうえに落ちる。カモがしまいには、少し無表情になっている。視線だけはじっとパンを見ているが、もう動こうとしなくなる。


「犬を探しています」と書かれた、犬の写真とその特長とかが書かれた貼り紙が電柱に貼ってあって、こういうときの犬は、どうしていなくなってしまうのだろうかと思う。誰か、不届き者に、さらわれてしまうのだろうか?あるいは、不幸にも、なんらかの事故などに巻き込まれてしまうのか?または、もしくは、犬がみずから、何らかの理由で、飼い主のもとを去るのだろうか?


そういえば昔、一人で暮らしている父が一時期だけ犬を飼っていたことがあった。たしか1994、5年頃のことだ。ハナコと名付けられた、雑種の犬だった。その頃父は、ほとんど人気もなく回りに住居も何もないような場所に住んでいて、ハナコの飼いかたも、えさをあげて、一日のうち適当な時間に鎖を外して勝手に遊びまわらせていたような感じだったはず。適当な飼いかただったが、このハナコもやはりある日、いつものように鎖を外されて勝手に遊んでいて、ご飯の時間になれば帰ってくるはずが、かえって来なくて、そのまま、それっきりだったのだという。父は周辺をかなり探し回ったらしいが、まったくの行方不明で、誰かが拾ってたのかなあ、と呟いていた。あれも、どうだったのか。


のんびりとした気分で歩いていると、色々なこともいつかは終わるのだと思って、ある種の寂しさを感じる。すべての最後には、お別れが待っているなあ、と。どうして、この世にはお別れというものがあるのか。僕の場合、ある程度、いまのままで、ほぼ不満もなく、なんでもなくこうして歩いているという感じなのだが、しかし、こういう時間も、いつかは終わるのだと思うと、それはなかなか物寂しいことだな、と。


高速道路の高架下の薄暗い道を歩いて、横断歩道を渡って、土手を登ると、いきなり視界が一気にひらく。荒川とその向こうの北千住の街並みを見下ろすことができる。風が強烈に冷たい。そしていつもそうだが、この川沿いの道の、おどろくような景色。自分の周囲数百メートル四方、遮るものは何もなく、地面が川に向かってゆるやかに下っていて、その向こうにおだやかな川の水面があり、その向こうに向こう側の土手があり、その先は遠い景色で、その先は空の色と雲のかたちである。これらのおそろしく単純な構成要素と、ほんの少しの隆起した、足元の雑草や、遠くの木の連なりや、土の盛り上がりなどが、ぜんぶが等価なものとして感じられて、いまこの広がりを強く感じているという、そのことの不思議さにつつまれるような面白さなのだ。まったく、こうして自分が前後左右にひろがる、この空間のなかを歩いていることの、なんという不思議さだろうか。


やがて千住新橋を渡るときには、それまで歩いてきた土手の道も見下ろすことになる。その下にある野球のグラウンドも見下ろすことになる。芝生の、野球をするためのフィールドの、マウンドの部分がかすかにもりあがっていて、その周囲だけベージュ色の砂地の色で、一塁、二塁、三塁で囲むラインは人が残した跡がそれ以外の場所とは地面の色をほんの少しだけ変えたようになっていて、まるで筆か、先の尖ったようなもので、いいかげんに引っ掻いたり撫でたりして付いたような模様のようで、僕はいつもここから野球のグラウンドを見て思うのだが、あの土の感じはじつにきれいで、でも写真に撮ってもあのきれいさはうまく写らないのである。誰もいないグラウンドもきれいだし、野球をしているときも、それを見下ろすのはたのしい。野球というスポーツは、上から見下ろすと非常にいいものだ。各人物がそれぞれてんでばらばらに動き回るわけでもなく、でもじっとしているわけでもなく、適度に秩序立っていて、適度に動きがあるからだろうか。


図書館のなかに入ったら、暖かい室温にすっかり冷えきった身体全体が溶けそうになる。そして、前歯が痛くなった。


図書館を出て、買い物して、かえりは電車で帰宅。食事のあとDVDで「華麗なるギャツビー」を観る。ミア・ファローがデイジージョーダンか最初わからなかった。ジョーダン役の女優の声がすごく低いので、ああこっちじゃない方かとすぐわかるのだが。この映画ははじめて観たのだが、たしか中学生くらいのとき、親戚のうちのビデオで「ポルターガイスト」が録画されていたのを何度も観ていたとき、そのビデオテープを最初に巻き戻すとき、行き過ぎると前に録画されている「ギャツビー」のラスト近くのところまで行ってしまって、だから白い豪邸とプールと、何か事件が起きたような雰囲気は、がちゃがちゃ早送りされる映像としてぼんやりと記憶していて、それをあらためて確認したかったというのはこれを観た理由のひとつではあった。しかしロバート・レッドフォードだとギャツビーのイメージとしては、ずいぶん立派というか、たくましい感じがしてしまい、先々週みた「天国の日々」のサム・シェパードのほうが、よっぽどギャツビーには似合うような感じがする。