「グラン・トリノ」


MOVIX亀有にて。とても面白かった。クリントイーストウッドが凄みを効かせたり愚痴をこぼしたりしているのを拝めるだけでも充分面白い。


あのアジア系民族の家族と、同じ民族の不良グループは、冒頭ではひとまず同一民族である事だけで、お互いに良い印象を持っている訳ではないにせよ、互いに均衡し、共生している。映画の冒頭で、スンという少女に手を出そうとしたのは、映画のほんの脇役である黒人3人の不良グループだったし、彼女を助けられなかったボーイフレンドでの白人は老人から腰抜けと罵られていた。タオをからかっていたのは白人不良グループであって、それを救ったのはモン族不良グループだった。…そのような、決して上手くいってる訳ではないが少なくとも均衡はとれていた各バランスに対して、イーストウッドの介入が強く波紋を与え、それによって事が起こり、何かが生まれる代わりに、何かが決定的に決裂してしまい、抗争の泥沼状態へと陥る。それが自分が関与した事の次第である以上、その事に対する落とし前をどう付けるか?というところだが、しかし、映画の終わりにおいては、何も解決されたようには思えず、とはいえ、やはりそれ以外の結末は、あり得ないようにも思われ、何とも苦い思いで劇場を出るしかない。


オレの家の芝生に決して入るな、といくら叫んでも、それは無理で、もはやお互いの芝生に入らない訳にはやっていけないのだ。かつて出征し、帰還後はフォード社の工場で働きながら家族を形成して、50年の人生を歩んできて、この前奥さんを亡くしてついに独りになったこの屈強で頑固そうな老人の、このあと残された時間が、決して穏やかなで安穏としたものではなさそうで、そんな中で、なんとか自分の矜持を守って余生を過ごす。というか、自分の矜持を守る、という事で、ともかくひたすら、自分が自分のスタイルを貫く。それしかないだろうということだ。しかし、それって何と過酷な事だろうかと、本当につくづく絶望的に思った。あの歳で、まだあれほど疲れる思いに苛まれつつ、「人生に迷い」「過去に苦しみつつ」それでもまだ、自分で自分を律する必要があるのだとしたら、生きるというのは、はあまりにも大変な大事業だ。いくらなんでも過酷すぎる。


実際、異なる文脈の、異なる相手との出会いというのは、若いも老齢も関係ない。哀しいほど、関係ない事だ。なにしろ「出会い」というのは、今までの経緯とか文脈とか、伝統とか歴史とか、誇りとか矜持とか、そういうのと何の関係もなく発生して、そういうのがいきなりチャラになるようなものだからだ。ある意味、「出会い」とは、一時的にでも相手のペースに合わせることなのだ。盗難未遂を犯した少年は、お詫びとして老人の元で一定期間働きたいと言う。それはそれで相手のこちらに対する心づくしの一つのかたちではあるんだろう。そんなの普通に迷惑だ、と言っても、それを断るのは侮辱にあたる、と妙な論理で反駁される。私たちのそのルールを一時的にせよ貴方も受け入れろ、という事で、異なる者同士がとりあえず結びつくためには、まずその譲歩が絶対に必要なのだ。お互いがお互い「定められた国際ルール」に従って「フェア」にコミュニケーションするなど、絶対にありえない。まずはとにかく、相手のルールに対して譲歩するしかない。そして、そのフレームの中で最善を尽くそうとする事でしかないのだ。それが、結果的に最悪の事態を招き寄せる事があったとしても、それしかすべはない。でもそれもたぶん、もう駄目なのだろう。そういう事でも上手く行かないのではないか?最後のシーンで、あのアジア系の少年がグラン・トリノを疾走させているシーンは、ある意味、なんか微妙というか、悪い冗談のようにも感じられる。


というか、やっぱり「人生の並木道」だよなあ、という感じ。人生って過酷なのかなあ、だとしたらやだなぁと思う。耐えられないなあと思う。どうせ皆死ぬんだから、いい頃合いでとっとと自殺した方がいいんじゃないか。そういう浅はかさに明快な反論をぶつける事は難しいだろう。でも、歳をとるという事は、どうしてこんなにも自由なのか?というつぶやきもまた、本当の事なのだろうか?だとしたら、それはそれで、決して悪くはないのだろうか?