ザ・シネマメンバースで、ヴィム・ヴェンダース「さすらい」(1976年)を、一時間くらいまで観る。
もともと何の関係もないし、関係をもつ理由もないし、その明確なきっかけもなかった、ただたまたま、その場で出会っただけの二人が、なぜかそのまま、行動を共にすることになる、そのようにしてはじまる映画を観て、こんなことは、さすがにない、現実には、こんな出会いは、ありえないよな…と思いもするけど、同時に、いや、それは思い込みじゃないか、ほんとうは、これこそが現実じゃないのか、こういうことじゃない出会いの方が、むしろあり得ないのでは?…とも思う。そしてそれは、どちらが正しいのかわからないけど、たぶん明確な理由やきっかけをともなわない場合の方が、実際にはほんとうのことなのだろう。ほんとうのことであるからそれに価値あり、ということでもないが、それがより強く切迫的な記憶として呼びこされるものに近いだろうとは思う。
他人の時間に付き合わされる、ということではないけど、自分の時間と、他人の時間が並行していて、それがときにはぶつかり合う、その感触を、お互いに顔を見合わせながら確認する、そんな相互確認の時間を共有する、それが二人、ということだ。それが映画における、二人が捉えられていることで生じる、ある時間の質ということだ。
そんな質が、なんだと言うのか?それがどうした?と問われたら、それにこたえるのは難しいのだが、なにしろそのような時間は、あるよね、そういうものだよね…と返答するしかない。むしろなぜ、それが何だと言うのか?といった苛立たしげな反応が予想されてしまうのかが問題だ。おそらく誰もが、こんなあやふやで、はじまりも終りもない出来事の連鎖を、もちこたえていられる自信がないからだ。とてもキツイ、たえられないのだ。目指すべきもの、信じるべきものが示されない時間が、辛すぎるのだ。ある種の映画の、そのような過酷さを耐えがたいというのは、とてもよくわかる。