Bill Evans



最初にピアノの音だけ聴こえてたのが、それ以外の楽器の音も聴こえ出し、太い鉄の弦が爪弾かれたときの、それを支える木材の内側に潜む感情を、軋み音と唸り声よってあらわしているような響きが断続的に刻まれ、バネ仕掛けの金属の羽根が震え、空気の振動がひろがり、与えられた場を分け合うような、お互いに間隔と間隔との距離に遠慮するかのように、三者がそれぞれに色ともかたちともつかない断片を慎ましく配置していく。音と音の、配置と配置のあいだ、そのやり取りの具合が聴こえる。薄くあらわれ、ふいに消え去り、今度はやや深く濃くあらわれ、また消え去り、残像と残像が重なり、そこにまたあらたに別にあらわれる。何かが何かを、どうにかして、そうなっている。


異なる楽器の、異なる音。ピアノの行方と、ベースの行方が、それぞれの素性が元から違うがゆえに、決してひとつには重ならない。同じ目的に向かっているようでもあるが、それぞれ別様のままであり続けようとしているようでもある。存在の気配すらない空間に、それでも誰かを見てそちら側に歩むことを、お互い真っ暗闇の中で繰り返す。音楽と音楽は決して混ざり合うことがない。インタープレイで生成される激しい化学反応は、そのときに飛び散る激しい火花の明滅よりほか、とりたててめぼしい化合物も生み出さず、異なる音と音が解決に溶ける瞬間は、おそらくこの先も決して来ない。日々その予感を重ねるしかない。


俯いて目を瞑る。限られた時間の中に、それでもなるべく大きく深くぽっかりと何もない間隔をあける。暗闇の広大な場所で、そこで自分ひとり平然と考え事をはじめて、その断片を、次々とこぼし、しずくのようなひとかたまりとして、鍵盤に運指することのくり返し。ベースやドラムをじっと聴き、考え事に沈んでいながら同時に聴いている。チームプレイがしたいのか、独りになりたいのか、どっちなのか。おそらくどちらも一緒にやっている。


ビル・エヴァンスの演奏では、いまいきなりその場で、ものすごい出来事が生成している、という感じはあまりない。たぶんこの人のやっている事は、かつて在ったものに対する手探りというか、じつは今までに数え切れないほど何度も、沢山の人々によって繰り返されては消えていったはずの、あまりにもありふれているがゆえにかえって、もはや誰の意識にも上ってこないような、潜在的で根本的なあるかたちというか、あるありかたそのものへの確認、といったようなものかもしれない。


しかし、そう言ってしまっては演奏しながら何かを探っているように感じられてしまうかもしれないが、そういうことでもない。演奏以外の何か、別のことも起こっていたり、そういう考えの湧く余地が残されているような感じは、まったくなくて、むしろやっている事が、普通よりもありえないほど、うそのように、ひとつにまとまる。ひとつのことをやったら、それがそこに、完結したうつくしさをもってちゃんとあって、普通にそうなるということがじつは逆に珍しいことで、本当ならこういう事は、簡単にできるわけではないはずだ。


世間的には、たとえば「Israel」とか「Nardis」とか、「Waltz For Debby」とか「Someday My Prince Will Come」とか、そういった楽曲を演奏したというだけで、いわゆる一般的な、偉大な音楽家ってことになるだろう。そう呼ばれるに充分な仕事だということだ。これはもう、ビル・エヴァンスが、あまりにも偉大過ぎるということで、今ではかえって、その偉大さがわかりにくい。良さが、というよりは、仕事の内容がいまいちよく理解できない、と言った方がいいかもしれない。少なくとも僕は、ジャズにはじめて触れた時期、ジャズという音楽の形式が元から、ビル・エヴァンスがやっているような音楽を含んでいるのだろうと思っていたくらいで、そうなってしまうとむしろ、当たり前だと思ってたその思い込みを除去するために、目の前のビル・エヴァンスをわざと自分の中でつまらなくしてからあらためて聴くような態度でないと、ビル・エヴァンスからちゃんとした距離を確保して聴けないくらいだった。


最近はビル・エヴァンスをよく聴いております。