「蛇の道」


蛇の道 [DVD]


CS放送されたのを観る。おそらく5年ぶりくらいの再見。思ったよりも結構忘れていて、ほとんどはじめて観たのと同じくらいの感じで観た。


…なにも身に覚えがないのにいきなり監禁されたとしたら、自分は酷い目に遭う理由などまったく無いからおそらく人違いで、自分をこういう目に遭わせても何のメリットも意味もないよ!…という事を相手にわからせようとして必死で説明を試みるだろう。それで普通なら、拷問する側がそれに応えるパターンとしては「自分はただ命令に従っているだけだ。理由はボスに聞いてくれ」とか「理由なんてないよ、お前が苦しむ理由はヘンタイの俺が楽しみたいからだよ」とか、そういう事を告げるようなのが、よくあると思います。。で、そういう映画を観ていたときに感じられる不条理さというのは、たしかにやりきれない、何とも禍々しい気分をもたらすであろうが、しかしある意味、不条理自体としては誰でも納得できるものであるとも言える。凄惨さというのは、その根拠がどこかに担保されている事を無意識に了解済みであれば、それを見ても目を背けたい気分になるだけで済む。根拠が確定しているなら、目を背ける自由も確保されている。安定した安全なフィールドである。


しかし本作が放つ不条理さは、前述のようなそれとはまるで手触りが異なる。この世の中には理解を越えた出来事があるとか訳のわからないヤツがいるとかいう話でもないし、「表」と違って「裏」の社会は怖いという話でもない。本作では凄惨さの根拠がどこにも行き着かない。復讐劇が個人の恨みから駆動している訳でもないし、個人ではあらがいがたい組織の論理から駆動している訳でもない。ボスもヘンタイも居ないのに、拷問が繰り広げられているとき、そこでは誰が一番「偉くて強い」のか?誰が仕切ってるのか?この凄惨さを召還させている主体は誰なのか?その正体がもし見つかったら、それに全身の力を込めて抱きつき、すがりたいと香川照之はずーっと感じているかのようだ。自分が一番惨たらしい暴力を行使しているというのに…。


香川照之は一見、復讐の主体であるかのように見えながら、映画の後半ではほとんど目的や自分を見失っており、目の前に転がる死体が、死体なのかそうでないのかも判然とはしていないような状態で、只ひたすら、哀川翔から認知されて認められたいという欲望にのみ突き動かされているかのようで、行動規範や重大な情報を、一方的に哀川翔から与えられて、それを真に受けるばかりで、その一瞬、心が鼓舞されるときの勢いだけで自分を動かしているかのようだ。そして最後には、自身の身体も今までの他人の身体と同様に、凄惨さに晒さなければならない事が指し示され、娘が惨殺される瞬間の映像を見せられながら、この宙吊り地獄の極みから脱出するためには、たしかに自分を死に至らしめるしかないようだ、と、ほとんどかすかな喜びの表情さえ浮かべながら、その過酷な運命に身体を預けて従順に従おうとするかのようなのだ。


こうして、香川照之は物語を駆動させる要因たりえず打ち崩されてしまうのだが、では哀川翔とは一体何者なのか?哀川の態度は根拠不明ながら始終堂々としており一瞬も取り乱す事はない。すべてをわかっているようにも見えるし、やる事なす事に一々確信が込められているかのようでもある。しかし同時に、きわめて行き当たりばったりで気まぐれな思いつきからのみ行動しているようにも見える。塾講師として意味不明な数式の講義に勤しむ哀川の姿は、まさにこの「謎」性を印象づけるためにあるもののように思われるが、このでたらめの、全く意味のわからない数式をただひたすら書き連ねていく授業で、年齢も性別も所属もすべてばらばらな老若男女が生徒として着席しており熱心に哀川の講義を聴いているシーンの、なんとも微妙にただよう芝居空間のわざとらしさは、ある意味すごい。。不可解な数式とそれに取り憑かれたように取り組む人々がいて、一人、突出してその「問題」に対する回答を出す才能に恵まれているかのような少女もいたりして哀川は少女を「そうか!なるほど、よくできたな!完璧だ!」と褒めたりもし、式を間違ったヤツには哀川の「駄目だよ、それじゃあ世界がひっくり返ってしまう」とか、そういう台詞さえ出てくる。何かわからないけど、特定の人々だけわかる大変重要で価値ある何かに取り組んでいる、という事が匂わされるのだが、ある意味ものすごくベタな芝居の異様にわかりやすい提示方法で、全体の中でちょっと浮き上がった感じにさえ感じられるのだが、むしろその軽々しい感じが、全体の無根拠さをより一層きわだたせる作用も、あるかもしれない。


そもそも、香川が哀川と最初に出会った原因は、ほとんど何でもないような偶然によるもので、それがまさに、路上に哀川と少女が白チョークで「意味不明な数式」を書いているときのことだったのだ。書き連ねられたどこまでも続く長い数式に、通りがかった香川がなぜかふとひかれてしまい、足下の白いチョークの跡をじーっと見つめている。哀川の「あんたも興味あるの?」という問いかけに「いや、僕は別に」と取り繕ったような笑いで返す香川。これが発端なのだが、要するに意味不明な数式に何故か「強い力」を感じて魅了された?…しかし、そんな子供だましの話もなかろうと思うが、逆に疑うと、それで強引に物語を引っ張れない事も、作り手も充分に承知しているのかもしれない。とにかく、この奇妙な数式の謎はかなり浅はかな薄っぺらいハリボテのような映画的仕掛けであって、それはつまり極めて企みに満ちた意図的な浅はかさではないかと思われる。とにかく何でも良いから、謎は必要で、そしてそれを踏み台にして「出会い」が生じる。


この世の中に普通に生きていて、他人と行き交うという事。…同じ車両に乗り合わせたり、コンビニの店内で同じ棚を見ていたり、路上ですれ違たりする。道を聞かれたり、電車で席を譲ってあらあらすいませんどうもーと言われたり、ポケットティッシュを差し出されたり、いらっしゃいませご注文どうぞ、と言われたりする事はあるだろうが、基本的にはお互いがお互いを無視して、無視する事を暗黙のうちに共有して毎日を送る事になっている。しかしそういうルールが通底している層とは別の層もあって、もうひとつの層では何が起きているかというと、そこでは講師と生徒が一カ所に集まって何かの講義を行っていたり、結婚した夫と妻がいて子供がいたり、隣り合った家の子供と子供が友達同士の関係だったり、ひとつの会社の下で社員が働いていたりするのである。それぞれが、それぞれの利害関係やしがらみや興味や自己実現のために、さまざまな事にかかわっていて、誰かが夢中になっている事柄は、他の誰かにとってはまるで興味もなければ、そもそもそれにどういう意味や目的があるのかさえわからないようなもので、人間の社会というのは、誰でもそれぞれ相互に挨拶や取引や恋愛などの通信が可能な層と、お互いがお互いの事を、まったく分かり合えず、個人が個別でしかありえない層とが、ぴったりと重なっている空間の事で、そのような空間で偶然にでも「出会って」しまったとしたら、それだけで充分に何かが動き出す予兆であるといえる。


だからその、前述した香川と哀川との最初の出会いのシーンが、本作のラストシーンでのラストカットでもあるという事が、ここでは重要なのだ。「あんたも興味あるの?」「いや、僕は別に」…このやり取りとふたりの役者の繊細きわまりない表情がとてつもないもので、本作が全編にわたって凄惨さと陰惨さをたたえている事の理由がこの表情一発で未知のまま投げ出される、その放擲の力が素晴らしいのだ。発端である「謎」の事が云々ではなく、そこで唐突に他人同士が出会ってしまった事実が、すべての始まりで、すべてはそれだけの事でしかないとさえ感じられる。いや、ここでは他人同士が、たとえば時間と経験を重ねることで、すこしずつ親しみをはぐくみ、友人のような関係へと変わっていくかもしれないという事の、何かたどたどしくもかすかに甘美でもあるような(ほとんど映画から無関係なところにまではみだしてしまうほどの)ぼんやりと想起させられる過去からの記憶までもが、その後の悲惨の合間を縫って呼び起こされるかのようなのだ。そのくらい、ラストシーンでのふたりの表情は、うまく言葉に出来ないような、うつくしい繊細さをたたえている。起こった事すべてが、その出会い以上の根拠を持たない事をまざまざと感じる瞬間、映画はもうエンドクレジットを迎えているのだが。