キーファーを観たり岡崎乾二郎を観たり


鉛や毛髪といった素材を組み合わせた、物質そのものの迫力と物量のスケールで、誇大妄想がそのまま具現化したかのような勢いで観るものを圧倒すると共に、その内実の空虚さや構造の脆弱さ、ハリボテの頼りない感じをコワモテで覆い隠そうとしながら隠し切れずボロボロとところどころ情けなく弱みを露呈させ、ヤケクソな笑いで誤魔化して取り繕って、いわば虚栄の叫びと涙声の弱音が裏表に貼り付いた感じを常に漂わせるのがキーファーの作品で、そういう物質の現れ方に対する作家自身の自意識みたいなものが、おそらく意図的に作品内に取り込まれており、そこに現代特有の人間の内面の屈折した共感を誘い込むような魅力があるのだと思う。それが美術に宿る(おそらく悪しき)文学性みたいなものとしてキーファーの作品を支えており、それが魅力でもあり同時に弱点でもあるのだろう。


無根拠に大げさでデカくて手間が掛かってるけど内実は空虚で裏側に何も無いような大伽藍系作品というものの独自な魅力というのがあって、考え方によっては大竹伸郎も奈良美智村上隆会田誠もみなそのあたりの視点で自分の作品を支えている側面があるのかもしれないとか思ってみたりもする。


そう考えると、やはり岡崎乾二郎レリーフ作品は前述した感覚とはまるで縁のない、もっと完全に物質とか自意識とかのレベルからは浮き上がったところで作品を成立させていて、その特異性が余計に際立つ感じに思った。実際、岡崎乾二郎のウェブサイトに載ってる立体の作品写真を見ても思うし、今回展示されていた、というより立派な美術の作品と作品の間の隙間に無理やり貼り付いてるかのようなたたずまいの、小さくて慎ましい冗談みたいに簡単なレリーフ作品を観ても思うが、その立体には本当に思わず、はっと息を呑むような強く実体を伴った魅力がある。やはりこれは大変なものだと思った。物質としては只の、東急ハンズに売ってそうな安っぽい樹脂系ダンボール素材とかを適当に切って貼り合わせてるだけのもので、しかもそれがもう20年近く前の作品なのでいい加減古びて、ボロくて、ヘナチョコな紙工作の匂いが満点で、にも関わらずこれだけ作品として強い、というのは、やはり驚きだと思う。とはいえ、ヘナチョコさがちょっと強く出すぎかもしれなくて、これはこれで「素材なんかに頼らずとも成り立つぜ」的な小さな誇らしさみたいなものが逆に透けてる感じもなきにしもあらずかもしれない。などと無理やり意地悪く考えてみたりもするのだが、それはつまらない揚げ足取りでしかないだろう。というか、いくら揚げ足をとっても本質に傷がつかないような成り立ちをしているのがこの作品であろう。それこそ作家本人のいう「論理的透明性」「ロジカルジャンプ」とはまさにこれのことじゃないか?とも思うし、「他人になる感じ」というのが実感としてこれかも!と思う。もし自分が「他人」になれたとしたら、それはほとんど自分が宙に浮いてるような状態であろうが、それをしばらくの間だけでも維持するためには、そのときのその感覚を支えてくれるのは、今この場所とこの時の必然性とか切迫性でしかなく、時間の順序と空間の順序に説得されるよりほか無いのだという事なのだと思う。