「大正シック」東京都庭園美術館


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他に見るべき展覧会もあるのかもしれないのだが、それでもつい、いそいそと「大正シック」と題された大正〜昭和の日本画および版画の展覧会に行ってしまう僕であった。でも観て良かった。


まず中村大三郎の「婦女」一点を目にするだけでも、来た甲斐があったと思わされる。なんだかんだ言っても、こういうモノが目の前にあったら、あとはもう黙って観るしかないじゃないかと言うような作品である。というか、まあ正直言うと、他の展示物は残念ながら全てこの作品の足元にも及んでいないので、この絵だけ相当丹念にじっくりと観ても会場を出るのがそれほど遅くなる事はないのである。


しかしこの、絶妙に配色されたソファの膨らんだ感触や刺繍の文様が、あるときはボリュームを伴って視界に飛び込んでくるようでもあり、あるときはまったくの平坦として空虚に引っ込んでしまうようでもあり、その中で、着物の赤く鋭いアウトラインが、全てを切り裂くかのように、まるで鮮血に塗れたサーモンの切り身のように画面にのたうっているかのようでもあり、背中にあてられているクッションの白さが、もうこれ見よがしでよく判ってるんだけれども、それでも信じがたい白さで羽のように見えていたり…という、しかし、そういう画面内の激しいまでの見どころが、所謂「下絵」を元にして丹念に図像を描き起こしていく事の、気の遠くなるような時間の堆積とか根気とか集中力とかいうものと、一体どのように交差しているのか?とつくづく不思議に思う。


美人画というのは元々結構、絞った枠の中での内輪芸を見せるようなスタイルとも言えるだろうが、こういう狭いところで汲々としてやらないと生まれてこないような雰囲気というのも確かにある。たしかに、今世紀以降の日本の「画壇」が生み出してきた絵画は、あまりにも欧米の動向と無縁過ぎて、…というか上手い事吸い取って縮小再生産しつつ小さな場所でやっているトコロはある。…とはいえ僕なんかは個人的には、まったく無価値と押しのけてしまうのには、すごい抵抗がある。…なんていうとまるで一家言あるみたいで偉そうだが、まあそうでもなくて単に美人画いいじゃん。昭和初期の日本画キッチュでいいじゃん。っていう事でも良いのだけど。


なるほど今世紀前半といったら欧米においては既にモダンが花開いていて、形態は崩れ落ち色彩は溢れ画面内には平然と文字やら数字やらが書き込まれ引きちぎられたタブロイド紙が貼り付けられコラージュされてアッサンブラージュされて、誰の目にも美術の新たな世界が生々しく口を開けていた事だろう。…まあしかし、前世紀からの帝国主義外交〜二度の世界大戦という流れにおいて、世界規模の外交状況悪化が、モダニズムと呼ばれる総体に複雑な陰影を与えてもいたと思うし、こういう事を単純に(形式が進化していって、とか)考える事には抵抗があるが…。というか、まあそりゃあ今から見れば進化(にしか見えない)なのだろうが、例えば当時の混乱した状況下の欧米動向と完全にシンクロして美術活動できた日本人というのを今の地点から見返して単純にすごいとか言うのはあまりにも単純すぎると思うが…っていうか、まあ世間ではそういう人こそがすごいのであり、天才的と言われるのか。まあそれはそれで良いじゃん。俺の言ってる事が意味がわからないじゃん。というか、話がずれかけたが、しかし、まあ当時の日本を見てみれば、少なくとも画面内に望遠鏡とかカメラとか集音用マイクロフォンとかの無機的機械を描き入れる事だけでも既に、大変な「芸術的冒険」であった訳で、このような冒険をしつつ、あるコミュニティ内で理想とされる場所に、作品をきっちりと着地させる技こそが問われたのだろうという事は、想像に難くない。


山川秀峰の「三人の姉妹」もまた、当時としては「極めて野心的な試み」が行われている。というか、当時「極めて野心的な試み」と呼ばれるような、ポピュラーな方法として、でかい自動車全体をドカンと画面内に入れて、その社内と外で三姉妹にポーズを取らせた絵なのだが、これは、イマイチな作品だった。むしろ図版とかで概要だけ観た方が良い…っていうか図版で観たときの良さを実物が超えてくれない感じだ。全体が平坦で退屈なものになってしまっており、ほとんど観るべき目の引っ掛かりがない作品と言える。かろうじて観れるのが車輪周辺の描写とか、左の女性の、ボンネットに乗せられている手の落ち着きの悪い気持ち悪さの感じ、くらいだろうか。こういう絵の概要としては、僕は好きなのだが、でもこうなっては駄目だ。勉強になった。


しかし、なんでこういう退屈な絵としか言えないようなものを僕は、そんなに嫌いではないのか?…なんかこういう、当初の仕様通りに、何の疑いもなくシステマティックに、狙いも良さも明け透けでミエミエなまま、抑揚なく組み立てられてしまっているモノへの変な執着があるのだ。1930年代の日本画なんかは、ほんとうにそういうのが強く感じられる。もう一歩進むと、下らない団体展のムードそのものになるような、けっこうキッツいモノではあるのだが…。というか、これらが既に団体展出品作なのだが。でもなぜか、その中にいい感じを感じてしまうのである。