賭ける意志


何かをある手段によってあらわしたい、と思って、それを実行に移した。で、出来上がったものを観て、それがとてもつまらないと感じたとする。そのとき「つまらなさ」というのは、まず失望感とか徒労感とか自分が受取れる筈だった成果の大幅な下方修正を強いられる事実の衝撃としてあらわれる。


で、何とかそういうのを乗り越えたとき、おそらく素の「つまらなさ」が、改めて再度あらわれるのかもしれないが、しかし、そういう「つまらなさ」とは何か?それは、仕掛けだけが有って、駆動する為の何かが足りないような状態を指すと云ったら良いか?何事かを引き起こす力の無さ自体、として存在してるもの、と云っても良いだろうか?


しかし、作品自体は「つまらない」とか「おもしろい」いう一色の層でベタ塗りで塗りこめられている訳では無いはずで、少なくとも作者にとってはそれが今、目の前にある事のスリルに満ちたものである筈だから作者よ不貞腐れずもっと楽しめ。


というか、「つまらなさ」に覆われている、とされる作品はそのつまらなさゆえに誰からも見向きもされないのは受け入れるしかないが、しかし作者は別で、作者とはそれの生成に関わった記憶をもつ者で、なにしろ作者は、それがまったく別の結果になると思っていたのだし、それが面白くない筈が無い、という確信および根拠さえ実感しつつそれを作り上げているのだ。だから、少なくとも作者にとっては自作に「つまらなさ」を感じる事は、常にショッキングな体験である。


作品がつまらなくなるという事態は何度経験しても、新鮮な驚きである。それは作品が思ったようなものにならなかった、というよりは、この作品を取り巻く周囲全体について作者である私が読み間違っており、散々な思いで懲り懲りして、何度反省して心を入れ替えても、それでもやはり依然として何度でも読み間違えてしまう、という不条理の感触ですらある。


しかし、こうも云える。結局、私が作った作品はものすごく面白いモノでしかない。私が面白いと思うものしか作れない。その意味では私は私の作品をつまらないと感じる事ができないのだと。。ひとつの作品を観てどこぞの誰かにも、そのように感じてくれたら勿論幸せであるが、それよりも、それを「つまらない」と感じた方が良いのか「おもしろい」と感じた方が良いのか、ここを考えていると、恐ろしい深みに嵌る。


たとえば賭博において、次に赤が来る!次に偶数が来る!と感じて賭け、結果的にその通りになっていく時、それは客観的事実として偶然であり、判断力とか正しさの証明ではない。「判断の正しさ」を精査する事は、賭博では不可能なので、単に「ひたすら連勝してしまう」おぼろげな記憶だけを元手にやっているのだが、それは根拠に向かって進む意志などとは違う、もっと儚い推進力である。しかし、本来はそういう力だけで駆動するのが、賭博への意志である。