「終の住処」磯崎憲一郎 の印象


先週の土曜から日曜にかけて磯崎憲一郎「終の住処」を読んだのは、非常に強烈な体験だった。しかしそれは決して高揚とか興奮とか喜びとか感動とか、そういう類の感触ではなくて、どちらかというと、何かズシリと重いような、ある種の禍々しさのような、できれば知りたくなかった事を無理やり知らされてしまったかのような、そういう感触に近い感じに思えた。


翌日の朝(つまり今朝)も、目覚めてしばらくしてから、昨日読んだその内容を思い出すやいなや、一挙にその陰鬱、といっても過言ではないようなあるヴェールに自分の気分すべてが包まれてしまったかのようになり、その一様な気分から抜けられないままの朝を過ごすしかなかった。通勤の電車の中で、しばらくは音楽を聴いていたのだが、また再び、本を開いて、物語を辿り直し始めた。一番はじめから細かな各要素をたしかめるように読み直している。でもそのようにして、断片を意識した感じで、分析的な気持ちで読むのがあまりふさわしいとも思えない。その方が気持ちのショックは抑え目にできる訳だが…いや、この小説は、気持ちのショックを抑え目にしたり効果的にしたり、というような読み方が不可能な内容だとも言える。書かれてあることそれ自体、それだけだからだ。まったく無防備に感情移入できもすれば、まった突拍子もないイメージに驚かせられもするのだが、それらすべてが、ただそのように書かれているだけ、と言った印象はある。