Rhythm is Rhythm


Djは音を作り出す訳ではない。音は、自分と無関係に最初からそこにあるので、その音をとにかく無事であるように見守り、脱輪や混沌に至らないように必要に応じて一瞬だけ支えてあげたりするのがDjの仕事である。


Djとは、場になにかを付け加える事が仕事なのではなくて、元々勝手にあった異なる2つか3つの流れが、溢れて闇雲にうごめいている奔流を、その都度必要に応じて部分を遮蔽させたり、せき止めたり、また一気に元に返したりしながら、それによって無秩序な状態にもかつてはある方向付けがあった事を思い出させもしながら、引き続きその流れの様子を見る人なのだ。その、眺めている姿こそがDjなのだ。Djは音楽を作る人ではなくて、音楽の残滓というか、音楽の記憶を、渦巻く濁流の合間合間に一時的に浮かび上がらせるような人の事である。現実的な濁流とふと生成する揮発性の記憶が重ね合わせられて、そのとき現実でも記憶でもない何かが生まれる。


光を上から受けて風にそよいでいる木々の葉の折り重なりがうつくしい、というとき、うつくしいのは木々の葉自体ではないのだ。そうではなくて、もとからある光が単にうつくしいだけなのに、それが木々の葉によって遮蔽されたりせき止められたりする。いわば元々たたえられたうつくしさが、フェーダを押し下げられて一時的にミュートされる。それがだから、逆説的にひかりのうつくしさの残滓として強く目に届くのである。


絵画は絵の具という物質によって、元々たたえられてたうつくしさを一方的に暴力的にフェード・アウトさせる。そうするとその無音の向こう側に、愉悦が溢れだしてくるのだ。


Jeff Millsがやっているのも結局、そういう事なのだ。Derrick MayがRhythm is Rhythmと口にするのもおそらくはそういう事かもしれず、木々の葉と同様、リズムは単にリズムでしかないのだけれど、それが折り重なりやがて消え去っていった直後に、強靱なグルーブがやってくるのだという事を指し示しているのかもしれない。


Jeff MillsのプレイがJimi Hendrixを彷彿させる理由もそこにあって、JimiにとってのもJeffにとっても、サウンドは自分が作り出すものではない。自分がそこに何かを付け加えうる存在ではなくて、彼らはむしろ、サウンドがすでに自分と無関係にそこにある事を知っている者である。それに手を翳して、遮蔽させたり押し止めたり、また元に戻したりするのが、かれらのやり方なのである。


ところで、妹が結婚するようで、明後日が式で、だから明日から二日ほど東京を離れる。帰ってきた翌日には、青山で大西順子のライブに行く予定。でも最近本当にテクノしか聴いてなくて、こんなコンディションでピアノ・トリオを聴けるのか若干心配だ。