仙川で岡崎乾二郎の作品を観る


仙川という駅はうちの奥さんの実家のすぐ近くで、自転車で来れるくらいの距離だそうで、学生の頃にそのあたりでバイトしてたこともあるらしくて、でもそれ以来、今に至るまで全く、もう十年か十五年以上、その地を訪れていないそうで、今日、仙川の駅にふたりで行ってみて、僕にとって仙川という駅は、生まれてはじめて来る場所であり、妻にとっては十数年ぶりの再訪だった訳だが、駅を降り立って歩き始めるやいなや、妻が「記憶とぜんぜん違う」「仙川じゃないみたい」「こんな建物なかった」などと繰り返すので、自分にとっては初めてであるはずの仙川の景色が、妻の言葉に影響されて、自分まで「ずいぶん雰囲気が変わった」などと思ってしまうようなイメージに、その風景が見えてしまい、そのことが面白かった。自分の目で景色を見ていて、かつての景色の記憶などまったく持ってないのに、無いはずのそれが、ところどころ消えて別の何かに上書きされてしまった状態、というイメージだけは、やけにリアルに感じられるのだ。


東京アートミュージアム岡崎乾二郎の展示を鑑賞。長細くて、幅の狭い空間が階段で三層積み重ねられていて、向かい合う壁と壁の距離はとても近いので、絵画を前に後ずさることの自由はあまりない替わりに、階段をのぼって上へ上へと逃げるような自由が確保されてる感じで、とても面白い空間だと思った。壁の絵画を正面から見ることもできるし、階段の途中で見下ろすこともでいるし、とてつもなく高い場所に掛かっている作品を真下から見上げることもできる。


岡崎乾二郎の作品というのは、実に観るところがいっぱいあると思う。いつまでもいつまでも、その絵の前にとどまり続けて、起こっている出来事を追いかけ続けるしかない、という作品である。こういうほんの少しの事が、とてつもない力として作用してくるのが絵画の力なのだろう。濁りや粘りや跳ねや、さまざまな出来事それぞれが一々面白いが、やはり鋭く立ちあがってくるエッジの利いた「淵」の部分が、もっとも「描画の意志」を感じさせるので、そこに心が引っかかってくるように思う。そこに、形態めいたものがたちあがってくるので、そこですぐに、別の画面の同じあらわれを探す、という「罠」にはまりそうになるのだが、それは違う。かたちは、あらかじめ決まっている訳ではないはずで、それがそのようなかたちになる「拠り所」として、隣がある筈なのだ。もしそうではなくすべてが最初から決まったルールに基づいている(簡単な見取り図的なものがある)のだったとしたら、絶対にああいう風な作品にはならないだろうからだ。その、あらかじめ決まっている事と決まってない事とのギリギリの線を見極めたいのに見極められない、というところも、その絵を長く見続けてしまう理由であろう。