日曜美術館岡崎乾二郎特集、あのアクリルによる平面シリーズ、あの謎めいた、謎そのものが凝固したかのような作品の一つを、今まさに描いている様子が、テレビで放映された。けっこう衝撃的。そうなのか、そういう描き方なのか…と、思った。マスキングとか、くりぬいた型紙とかを、あるいは使用しているのでは??とかすかな予想もしていたのだが、そうではなかった。おそらく、そうなのだ。テレビで見たような、あの描き方なのだ。わかったのは、進み方が、ものすごくゆっくりであるということ。いや予想範疇を越えるほどではないが、しかしすごくゆっくりだ。映像で見ると実感する。あの速度感なのだ、と知ったことで、またあらたな気持ちで作品が見えるかもしれない、という気がした。

匂いは過去の記憶を呼び起こす喚起力が非常に高く、それは過去を呼び起こすというよりも過去をありありと目前に現前させるほど強く働くが、色彩も同様ではないか、この絵の赤は、私がかつて見たあの物質の赤にほかならない、自分にとってはそうとしか思えない、とか、そう感じないではいられないほど、時として記憶に強く作用するのが色彩である、といった旨の岡崎乾二郎本人の言葉が紹介されていた。まさにその通りだと思うが、同時に自分は個人的に、色彩というものをどれほど「わかって」いるのかと、ぼんやりとした不安も感じなくはない。わかるというよりも、色彩とはつい反応してしまうもの、見ないでは済まされないようなものだろう。但しそれが自分自身の生理に近い層からの感覚として感じるか、そうではないのかで、絵画の感じ方はけっこう違う。どちらが良いとか悪いではない。自分自身の出来事としてその感覚の衝撃を受け止めるのはもちろん楽しいし、徹頭徹尾自分にない他人の感覚を細密にシミュレートする導きとして、それを読むこともまた楽しい。まあ実際は、その二つの感覚を行き来することになるのだろう。

正午あたり外出。なぜかこの寒い時期に、わざわざ水元公園に行くパターンを毎年くりかえしている。猛暑よりはマシかもしれないが、それにしても寒い。いや今日はまだ日差しもあり悪くない天気ではあった。歩いている分には快適と言って良い。

冬の公園の何が良いかと言えば、まず極端に人が少ないことがある。前回同様、松戸に近い側から入園したのだが、広大な敷地がほぼ無人。この景色を目にするだけで、僕などはある種の感慨に耽ってしまう。ああ神なき時代、近代のかなしみと空虚、その世界に僕も今こうして生きている、ここから生まれてここで死んでいく群衆の一人だと、無人の公園は近代が作り出した壮大な抽象空間で、僕らの生存基盤にのっぴきならぬ影を落としている、ここに立つとそのことを実感できる(やや大げさ)。

冬の公園の何が良いかと言えば、まず人よりも鳥が多いこと。人の百倍くらいの数、水鳥たちが水面に身体を浮かべている。カモメの身体の、ほんものの白色といった感のある輝くようなうつくしさ。アオサギやカワウたちの植物のように静止した姿。…先月掛川花鳥園に行った記憶を思い起こして、やはり人間と鳥たちとの距離は、これくらい離れてないとおかしいとあらためて思った。掛川の鳥たちはあまりにも我々に近くて、あんな足元にまでノコノコ来られては、鳥としての誇らしさというか清潔さのようなものを欠いている気がしてならない。少なくとも我々にとってはやはりこの公園に鳥たちが好ましいように思われると妻に言う。

そんな話をしながらベンチに座って寒風にさざ波を浮かべる水面を見ながら買ってきた缶ビールを開け、ワインの小瓶を開けた。が、アルコールもたらしてくれるかすかな温かみなどほぼ役に立たなかった。日差しはたしかに暖かく、背中側には陽光のぬくもりが感じられるのだが、やはり冬は冬で、身体全体とくに手や足先や下半身の体温がけっこう奪われたのを感じた。少量ながら酒を呑んだはずなのに、そうとは思えない、まるで清涼飲料を飲んだだけみたいな素っ気ない気分で、立ち上がって歩き出すとズボンの内側が氷のように冷却されているのが肌に感じられる。午後も三時を過ぎると日も少しずつ翳りはじめますます気温が低下するだろうと、やや急ぎ足で、しかしいつも通り園内をぐるりと一周したのち反対側の出口から出て、わりにタイミングよく来たバスに乗って最寄り駅まで帰宅した。乗った直後のバス車内の暖房がほとんど、水風呂で芯から冷え切った身体を再生させてくれるサウナ室に入ったかのように感じられた。全身をくまなくつつんで、気が失われそうになるほどの暖かさだった。