原口典之展 社会と物質


「社会と物質」と題された展覧会であるが、いわば「(社会を基底材とした)物質」という感じであり、それらが社会の中での、元あったところから無理やり引き剥がされてきて、なぜか作品と称して展示空間に置かれており、要するにそれらというのは具体的には、油であり、ポリウレタンであり、ラバーであり、鉄加工品であり、といったものたちで、それらすべてが、今、自らが美術の展示作品として置かれている状況に戸惑い、自分の無骨な素っ気無さに恥じ入り、元あったところの郷愁(?)めいたものさえ湛えているかのようでもある。そういう物質フェティシズムの快楽性が強烈で、しかしそれを裏返したときの、本来の自然物への郷愁ももちろん裏で走っており、そのあたりの按配もとてもよい感じだ。そもそも、元あった社会システムの製造工程の、もともとの文脈からそれを物質として引き剥がしてくるときの、その一瞬にしか「作家」は姿をあらわさないのだが、作品に定着させられている物質のほんの少しの表情からうかがえる、その一瞬のあらわれが、かえって美しい。ポリウレタンやラバーも素晴らしいが、カラーレリーフというシリーズにもひときわ心ときめいた。アルミとかステンレスとかの硬いのに柔らかく、滑らかなのに鋭くて手を切りそうな、そういう両義的な人工物が無理やり壁面に括りつけらて、無理やり自分をのけぞらせて、こちらに向かって左右両端を向けようとするかの如く「反っている」ありさまは美しい。。そして、美しいといえばもちろん、軽くて重く、柔らかくて硬く、滑らかなのに危険な「鉛」のシリーズも。僕の中で原口典之といえば鉛、という図式が勝手にできていたので、鉛を使った作品がもっといっぱいあるのかと思っていたが。でもとにかく、素晴らしい展覧会であった。作品を観ていて、どれもとにかく、その素材に対する扱いの繊細さがとても良い感じで、なんというかうまくいえないが、とにかく久々に、ああこういう事なのだ、これで良いのだ、これが良いものという事だ、と思えたし、自分でもすぐにでも自分の制作を続けたく思えた。そのように思えた事自体久しぶりだったので余計にうれしかった。


作品をみながら、その作品が油であり、ポリウレタンであり、ラバーであり、鉄加工品であるという事を絶えず意識する、というのは、作品の体験として刺激的なことであり、かつここで召還された物質はそれぞれ、大変強いある種の意味作用を促すものたちばかりで、そのことがさらに深い陰影をもたらすのだが、しかしその意味作用がない地平では機能できない作品群であるかもしれず、その意味では「20世紀最大の発明品」であるさまざまな物質でできた作品群であり、それらはとても「20世紀」的であるといえる。弱点としては、ちょっと油断すると、現実の作品(物質)をはなれて、そのような「20世紀」的な、とか何とかいう、そういうぼやっとした言葉のイメージへと、考えがバラけてしまい、曖昧なところへするりと逃げ込めてしまえるような余地が作品の内側に微妙に残っているところかもしれないが。


しかしそれにしても僕は「Oil Pool」の前に、いったい何十分佇んでいたのだろうか。理屈以前の、人間の普段認識している流れのすべてが、この作品の前では完全に静止してしまう。静止させてしまうくらいの作用が、その作品に宿っている、という事である。この、作用が働いているか否かが、作品の質を決定する。本当にすごい作品の前に立つと、ただ、ことばをなくして、その前に立ち尽くすしかない。それが今、ここに在る、という事の信じられなさにひたすら驚き続ける状態。


「Oil Pool」は、黒い油でなければいけないのか?「Oil Pool」の作品の力は、ほんとうにそれが油という素材でなければ不可能な力なのか?ということをぼんやり考えてもいた。水槽いっぱいに張られたオイルの、さざなみひとつたたない静謐な、硬い鏡のような黒い水面は、水などよりもはるかに高密度で高重量な感じで、、そこに写り込む、展示空間上部のすべての景色は、オイルの水面上でキレイに逆さまになって静止していて、それがあたかも床面にプールの矩形のかたちにぽっかりと穴が空いて、自分が立つ足元の床の、真下のフロア内部が丸見えになっているかのように錯覚させるほどの超高解像度でイメージが現前している。


たとえば、もし、これが廃油ではなくて、墨汁だったら、この作品はこれほど強いだろうか、と考える。なぜそんなことを考えたのかというと、先週「水墨」に関する展覧会を観たからかもしれない。でも墨汁では、決してこのような結果にならない、というのだったら、では墨汁で仮に、この結果と同一の「効果」を出すことに成功できたとしたら、それはどうなのか、とも考える。考えながら、そのようなことを考えるのはつまらない事だとも思う。でも、とりあえずそれを観ている自分の中に、それが油なのだ、ということは、何がしかの作用をもたらしている。油は、ところどころ、こぼれて、床面に黒い飛沫の滲んだ広がりを残している。匂いも強烈にあたりに漂っている。それが、油である、という事は、はっきりと意識されている。でももし、それが墨汁だったら、それはおそらく「現代の水墨画」みたいなものになるのだろうか。まず、油ではなくて、墨汁の匂いがあたりに充満するだろうから、それは意外とそうなるかもしれない。