「空気人形」「トウキョウソナタ」など


新宿バルト9で「空気人形」鑑賞。(本文中でネタばれしてるので注意)ペ・ドゥナの素晴らしい裸身を見ることができただけでも良かった、と思いたいところであるが、ちょっと色々抵抗を感じさせられる部分が多く、個人的には後味の悪さを胸に抱いて劇場を出た。板尾創路の生活ぶりをはじめとして、様々な人々の様々な生活の断片が出てくるのだが、その出方、あらわれ方が、もうすでに自分としては駄目なように思えてしまう。映画の中で観客に対してそういう風に「紹介」してくれなくてもいいから…という気持ちになってしまう。ペ・ドゥナはたしかに可愛いし手足も長く実にうつくしい肢体を画面に晒しているのだが、お話がお話なだけに、どうしても物語的制約に縛られたままで、そのやらなければいけない役割を演じている感がつよく、でも中盤に至ってからようやく、かなりのびやかで柔軟な感じになって来るので、そこからは掛け値なしにペ・ドゥナ的魅力が溢れてくるので、そこですくわれる思いになって、このまま、物語とか登場人物とかの全設定を放棄して、もうとりあえず前半までのお話とかどうでもいいし、「空気人形」と名付けられた映画をそこで放擲しても全然構わなくて、このままずーっとペ・ドゥナがヘラヘラとしながら普通にビデオ屋で働いているお話に変わってくれたら良いのにと思った。それを延々と観続けていたかったのだが、当然のことながらそれは適わず、なんだかやたらとい沈鬱で暗い感じのラストになっておしまい…。うーーん。なんだこれはー。。…あと以前「誰も知らない」という作品を観たときも思った事なのだが、なぜ最後に人が死ななければならないのか、そこもかなり疑問。というか、人の死自体は映画の中においてはありふれている訳で、おそらく僕はなぜか、是枝裕和監督の作品のときだけ妙に人が死ぬ事に(おそらくその演出に)ある種の違和感というか抵抗感を感じてしまうようだ。


新宿を出た後、上野のtutayaに寄って「トウキョウソナタ」を再見しようと思って借りた。で、さっき観終わったのだけど、最初観たときも思ったけど、この映画の小泉今日子は本当にとんでもなく素晴らしいと思う。その事はもう、くどいほど何度でも言いたい気持ちでいっぱいだ。この映画の小泉今日子を観ていられさえすれば、僕は幸せな気分で居られるとさえ言える。この女性の仕草や語るその口調や振る舞いの一つ一つが、ほとんど甘い蜜のようにゆっくりと甘美に自分の中に染みこんで来るのを感じる。この映画に出てくる家族はそれぞれみんな少しずつ、ばかなところがあって、もちろん妻であり母親でもある小泉今日子も、ややばかなところのある人なのだけれど、でもそういうばかや利口という事とか、良い悪いや正しい間違ってるをすべてひっくるめて、その人それ自体の存在が、とてつもなく甘い蜜のように、僕に感じられるのだ。最後のシーンでは、初回時は泣かなかったのに今回は予想以上に号泣してしまった…。あの小泉今日子の半開きになった口の凄さ!…一瞬の想像で、この後数十年後に小泉今日子が年老いて死んでしまって、そのお通夜の席で、お棺の蓋を開けて故人のお顔を覗かせてもらったら、既に冷たく表情をこわばらせている小泉今日子の死顔が見えて…まさにその顔が、今そこにあらわれたような錯覚におちいった。(ちなみに、この映画での死者である津田寛治とか役所広司とかの「消えっぷり」は小気味良く素早くて、こういう風に消えてくれるのは全然良いと思うのだが…)