うたうひと

CS(日本映画専門チャンネル)で、酒井耕・濱口竜介「うたうひと」(2013年)を観る。

東北の方言による民話の語りをひたすら聞き続ける、何を言っているのか、最初は何となくわかる、ような気がするのだが、そのうちすーっと、霧に隠れるように意味がわからなくなり、しかし声の抑揚やことばの区切りの調子で、日本語に特有なあの感じ、あの気分に近い何かが、あらわれているのだろうなと推測して、その雰囲気というか感触そのものは慣れ親しんだものだから、まったくわからない立場(外国人的な)に自分が置かれたわけではない。しかし、やはり何が語られているのかは大方わからないまま、その言葉を聞き続ける。語りは後半につれて密度が高くなり、テンポが速くなり、聴き手の相槌にも熱がこもり、周囲の笑い声が高まる。やがてクライマックス(オチ)を迎えて、ひとつの語り(お話)が終わる。終わったあとの余韻がその場にひろがる。映画を観ている自分にもそれはわかる。しかし、何が語られたのか、どんなお話だったのかは、ついにわからない。

外国語の語りを字幕もなしにヒアリングしているのとはまったく違う経験だ。意味の一つ一つはわかる。日本語だということもわかる。しかし、それらが大きな意味へつながっていかない。その語りが聴き手の頭の中に本来つくりだすはずの、今こことは無関係な何かがうまれない。ただその場の語り手と聴き手と周囲の人々の様子を見ているだけだ。(あるいは自分の理解力の低さも関係あるかも。その地方の言葉への慣れとかとは別に、元々言語ヒアリング能力というか理解力の高い人なら、もっとわかるのかもしれない。)

しかし、観ていて、それが面白いのだから不思議だ。たぶん語られた話も、とても面白い話だったのだろうと思う。それを知りたいとも思うが、しかし語り手の語り方や表情、聴き手(児童文学者の小野和子)の表情や相槌の声を見ているだけでも充分に面白く、その語りの場が魅力的なものに感じられる。