「ヴィヨンの妻」


映画「ヴィヨンの妻」をMOVIX亀有で観る。どうでもいいけどMOVIX系映画館の上映開始前の「映画ってたのしいなあーーこんな楽しいものほかにないよーー映画をみれば幸せひゃくばーい、みんなで観れば楽しさひゃくばーい、みんなで泣けば感動ひゃくばーーい…たのしいなたのしいなたのしいなーー…ムービックスへようーこそー・・・」とか延々と流れる歌は、なんだか往年のオウム真理教の宗教歌っぽくて激しくヤバイといつも思う…


僕は高校生の頃は、ものすごく典型的な太宰ファンで、どの作品もひたすら読んで読み返す毎日だったので「ヴィヨンの妻」なんかは本当に好きな作品で、それがこのたび映画になったのでいそいそと観にかけつけたのだが、まあ映画はなるほどこんなものか、という感じに思ったが、それにしても僕の中で「ヴィヨンの妻」という作品は未だ完璧なまでにうつくしいまま心の中にあるなあと、あらためて思った。映画を観ながら、記憶の中に残っているその作品の細部のことが鮮やかに呼び起こされて、スクリーンで起こっている出来事そっちのけで、頭の中に浮かぶ記憶のイメージがありありとあらわれては消えてゆくので、そっちの方に深く感動していた。冒頭の、奥さんが、じつは何のあても無いのに「お金を返すあてが出来ました。今日か明日確実に返せそうなんです」と口からすらすらと嘘を言って、そのまま店で働くことになって、なし崩し的に、その立ち居地に収まって、そこでそのまま、くるくると忙しく立ち回って、そのうちお金のことも自分とは無関係のところでなんとなくどうにかなってしまい、夫も私も、そのまま大きな流れにそのまま翻弄されるように、そのままどこまでもどこまでも流れていってしまい、もうそのままアイスクリームのように溶けてしまっても良い、とおもえるくらいどこまでも流れていく、ということの、その川の流れの、水のうねりや白い飛沫や光の反射や透けて見える水底などのその質感自体が「ヴィヨンの妻」という作品それ自体なのだ。そのことをまざまざと思い出して、あらためて感動した。というか、僕がそれを読んで以降、そのように生きていけば良いと、無意識のうちに思ってないとしたらうそになるだろう、という事でもあるのだ。


(作品にうたれる、というのはそういうことだ。作品について語るというのは、自分の中立性・公正性・自律性を自ら棄損させる営為である。その自覚があってあえて語らなければならない。それを好きだ、と口にする以上、口にしたことの重みや責任を背負うのだ。それはその対象に対する責任でもあるだろうし、場合によっては周囲の視線や嘲笑に毅然と立ち向かう覚悟でもあるだろうし、もうやめとけ、深入りしすぎだ、バランスを保て、という親切な忠告に自ら背を向けることでさえあるだろう。作品について公正に、中立的に、フェアに語ることができる、などということは原則としてありえないのだ。)