コメの幽霊


妻が、何気なく普段あまり使われない炊飯器の蓋を開けたら、そこにはまだ、いつかのコメが少し残っていたらしく、しかもそれは、もはや誰の記憶にも無い忘れられた存在として、もう何週間も、いやひょっとすると何ヶ月も前のものかもしれないという状況だったらしく、とにかくそういうものが中にまだ、少し残っていたらしく、妻の目の前にあらわれたそれは、とてつもない状態だったそうで、それは多分、かつてコメであっただろうという何かなのだが、そうでありながら、その表面は完全な黒色で覆われており、もこもこ・ふわふわした掌に乗るくらいの大きさの不思議な質感をたたえた、何か只ならぬ気配をたたえた、ある固有の密度を持ったひとつの固まりとして、久しぶりに光の下へと導き出てやや眩しげに、たじろぎもうろたえもなく堂々としたたたずまいでそこに居た。。妻はそれを見て、瞬時に全身の力をすべて奪われ、へなへなとその場に座り込みそうになったらしいのだが、それでも何とか踏み止まり、残された力を振り絞り、全身を襲う震えと恐怖心に抗いつつ、かろうじて炊飯器から内釜だけを取り外して、そのまま流し台まで運び、すぐに水道の蛇口をいっぱいに捻って、勢いよく迸り出た水で、奇怪極まりないその物体を洗い流そうとしたそうである。すると、その黒い物体は、予想よりも粘り強く内釜の底で水攻めに耐えていたらしいが、次第に様子を変え始めたかと思うと、水に浸されながら、驚くべき事にぶくぶくと異様な速度で膨張を始め、化学反応の如くふわふわとした黒い泡を勢いよく泡立てながら、とても軽やかに、内釜いっぱいに、黒いセッケンのあぶくを元気よく溢れさせたかと思うと、そのままさーっと溢れ出て、流れて、排水溝にさらさらと吸い込まれて行き、やがて跡形もなく消え去ったのだという。元々が、炊かれた白米だった筈のものが、そのように変容した挙句、跡形もなく消え去ったという…たった今、目の前で起こった出来事に、わが妻はこのときほとんど意識を失い欠ける一歩手前だったそうな。仕事から帰った僕は、その話を聴いて、しばらく考えてから、たぶんそれは「コメの幽霊」だったのでは?と言った。