今泉特集2他

日本映画専門チャンネルで、今泉力哉パンとバスと2度目のハツコイ」(2018年)を観る。今泉力哉という作家がこだわるテーマの一貫性、どの作品であろうがまったく変わらずにほぼ同じことを追求し続ける執拗さと図太さがすごい。少なくともこれまで観た今泉作品の登場人物は例外なく「恋愛とは何か?人を好きになるとはどういうことか?」ということしか言ってないし考えてない、というよりもそのような問題を考えるためだけに登場人物が存在するという感じだが、おそらく本質は「恋愛とは何か」ではなくて、そのようなあやふやで定式化できない謎エネルギーの作用を与えたときに、映画の登場人物たちはそれぞれどのような運動を為すか?ということを、手を変え品を変えの試行錯誤で試しているのだと思われる。

 

主人公のふみは二年付き合った彼氏からのプロポーズを断る。どうして、いつまでも相手を好きであると言えるのか?あなたも私も、そんな約束を出来る保証がないではないかと。やがて彼氏はふみの元を去る。

 

その後ふみは、学生時代に同級生だったたもつ、それと友人のさとみと偶然再会する。ふみはかつてたもつを好きだったし、さとみはかつてふみを好きだった過去がある。たもつはバツイチだが離婚した相手にまだ未練がある。しかし相手は別の男との新たな生活が順調で復縁はかなわなそうだ。

 

ふみとたもつは再会し、時と場を何度か共にすることで、再び互いが違いに惹かれ始めたことを意識するが、しかし簡単に距離が縮むことはなくふたりは、ことにふみは終始冷静なままだ。ふみはほとんどすべての結果を先取りして考えてしまい、そのことに絶望(自足)してしまう病気に掛かった人だ。その病気から癒えぬまま生きることこそが「この私」だと、考えているかのようだ。だから不確かな未来へ向けた約束は出来ない。「ためしに付き合ってみる」という賭けが出来ない人だ。人を好きになるということの、意味のわからなさと信用ならなさ、その感情がいつまた消え去ってしまうのか自分も相手もわからないのに、軽々しく約束など出来ないし、お付き合いも、ましてや結婚なんて絶対に出来ない。

 

ふみはたもつに、私は一人でいることが必要なのだと言う。そうでなければいけないのだと言う。それは彼女自身の意志として発される言葉だ。しかしそれは私が私であるためのエゴイズムで、そのことと、ふみがたもつと好ましい関係を維持していくことを、ふみは両立したい。そのためのアイデアを探りたい。如何にエゴイズムを持ち込まないままでの二人の関係が可能か?ということを、手探りしたい。

 

ふみとたもつは二人でドライブへ行き、見晴らしの良い景色を見ながら、現時点での二人の過去と現在の内心を確認し合う。たもつは元妻に強く執着しているが、それと同時にふみにも惹かれていることを意識しているし、ふみも同様だ。そのうえで、ふみはたもつに、私のことをけして好きにならないでほしいと言う。おそらくふみには「好き」という言葉があらわれることでうしなわれるものとあらわれるものに対する強い警戒心がある。しかしその夜、二人はふみの家で朝まで一緒の時間を過ごす。但しふみの家にはふみの妹もいるので、ぎこちない三人が一つ屋根の下で一晩を過ごしたというだけだ。

 

パン屋で働くふみは翌朝、明け方早々に出勤する。たもつと一緒に家を出て、明け方の空を二人で見る。このキレイな空の色が、私の日常なのだとふみはたもつに言う。その夜明けを見せるために、ふみはたもつに自宅での一泊を勧めたのだった。

 

恋愛ではなく、言葉で関係を表現し難いがたしかに好ましい感情をもつ相手に対して、自分が毎朝見ている自分にとってかけがえのない日常のひとつを見せたい、それを共有したいと考えて、ふみはそれを実行した。これは新しい試みだ。上手く行くかどうかはわからないが、私が一人でいることと、たもつとの関係を維持するための、とにかくそれは新しい挑戦である。

 

「愛がなんだ」と同様に本作も、恋愛を規制の枠組みにあてはめて制度化してしまわぬためにはどうすれば良いのか?を真摯に考えようとする人物が主人公の作品だ。

  

続いてDVDで、ジャ・ジャンクー「青の稲妻」(2002年)を観る。久々の再見だが、ある巨大な丸太を一気にぶった切ったら、断面におびただしく大量の生き物たちの蠢きが猛烈に展開されていて、その有様をただ目を見張って見ているしかない…といった感じの作品だ。この荒々しい景色は何事だろうかと思う。これから発展していくようでもあり、このまま朽ちて廃墟と化すかのようでもあり、時間がどちらへ向かって進んでいるのかよくわからない、そもそも昔なのか今なのかもはっきりしないが、カラオケやパソコンやテレビのニュースは我々の世界と地続きなようだ。アルコール会社のキャンペーンガールは荒涼とした土地にぽつんと停車したトレーラーの荷台で長い手足を振りながら踊る。タバコを吸いながらチャオチャオの踊りを凝視するのは、まごうことなき不良の目つきと表情をたたえた不良少年シャオジィだ。不良少年とはまるでその場所に生えた独自の草のようだ。割れた音質の歌謡曲と耳障りなバイクのエンジン音と埃と喧噪の中に生息する草。草はまるで光を求めるかのように象徴を求めていて、シャツの模様も蝶のイラストも口移しで吹き込まれるタバコの煙も、すべてが彼にとって彼の現在位置と行く先を示すサインだ。道は未舗装の悪路そのもので、手にしたはずのものはいつの間にか失われるし、倒すべき敵も見失われ、浅はかな計画も崩れ、まるで見通しは明るくない。

 

ビンビンの彼女の自転車、チャオチャオのダンスとカツラ、盛り場、ビリヤードの置いてあるだだっ広い溜まり場(駅?)、あの時間と場所が歴史のなかに収まってるとは思えない。あれらはこの世界の、中国の、ある一時期であると言葉で考えても、納得するのは難しい。地続きの時間から切り離された、この一度限りの出来事のようにしか思えない。

 

「青の稲妻」初見時の感想がこちらに。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20071124/p1

 

続いて日本映画専門チャンネルで、今泉力哉「退屈な日々にさようならを」(2017年)を観る。が、感想はまたの機会に。 

続いて日本映画専門チャンネルで、今泉力哉nico」(2012年)を観る。が、感想はまたの機会に。

(さすがに一日で四作品鑑賞は多過ぎた。もはや各作品の違いが頭の中で混沌としてしまって再見しないとダメかも…)