Turn! Turn! Turn! (To Everything There Is A Season) 


真っ白い光の中に黒い物体がある。その物体が何かを見ようとする。瞳孔が光量を調節するためにぐっと狭まり、絞りとピントのバランスが適切になると、黒い物体の表面が姿をあらわす。その表面の形態や質感を見る。それを見ているときさっきまで周囲を取り囲み世界すべてを渦巻きの中に引きずり込みそうだったほどの白い光の海は消えている。黒い物体さえ消えている。ただ表面だけがある。


天井の蛍光灯のうち半分だけ点灯させているが、店内はずいぶん暗く感じられる。少なくとも営業中という感じはしない。でも周囲の店も大体似たような感じで営業してるし、高いビルの上や繁華街なども、ぎらぎら光るでかい看板がほとんど光ってないので、全体的にはちょうどいいということだ。


Turn! Turn! Turn! (To Everything There Is A Season)


歌そのものが唐突極まりない。いや、唐突さこそが歌なのだ。出し抜けにうたわれない歌などこの世に存在しない。どこの世界に、今あるこの現実と地続きでうたわれる歌があるというのか?歌は常に唐突である。歌は常に切断の結果としてあらわれる。その曲が再生されなければいけない理由は、ほんとうはこの世界に、何一つとしてない。しかし再生されてしまうところが、まず一つの巨大な奇跡なのだ。その高まりにもウネリや流れにも何の根拠も無い。にも関わらず圧倒的な躍動感をもって歌は進む。頭部を失った昆虫のように動き回り跳ね回る。僕はそれを目の当たりにして、何度でも同じように初体験する。その唐突さに何度でも驚く。出し抜けにあらわれ視界が一挙に別の色に塗り替えられていくを感じる。


きっかけをなくした状態のまま僕は何度でもそこに立つ。これまで何度でも泣いていた自分を見出す。泣く理由が最初の段階で壊れてしまって、泣き止むすべを持たないままであらわれて、その場で果てしなく泣き続ける。それが何度もリフレインする。僕が何度でもそこにあらわれて、長いこと泣いて泣き濡れて泣きはらした顔の自分が、今なぜなのかわからないが、一秒前から、ずっと僕は泣いていたことに気付く。