いつか行ってみたいと思っていた湯島にある古いバーに、酔った勢いで入ってしまったのが先々月で、そのときはジントニック一杯だけで出てしまったけど、ついに行った、という満足感があって、それで、昨日もまた行ってしまって、今回はちゃんとのんで、つまりそこそこ、ちゃんとした代金をお支払いしたはずで、ふたたび満足した。しかし、お酒の素晴らしく美味しいとおもえたときの、あの背筋が伸びるような感じ、心の中がすっとまっすぐに立ち上がって、清浄な風が吹くようなあの感じは不思議だ。いや、まあ、それが酔ってるということなんだろうが、それでも本人の中には、酔いなどという言葉とは正反対のものが涼しく立ち上がっている。

 酒とはいわば、植物の香りを体内に取り込もうとすることなのかなあとも思う。というより、植物とのあらたな関係を結ぼうとすることなのかもしれない。発酵という手段を使うことで、人間の想像できる世界とはまったく無縁な、植物と菌だけの世界という場所に、あるひとつの橋がわたされる。その橋を渡りながら、植物と菌がかつて交わしていたことばのようなものを追想する。土を食べたり、木の皮を食べたりすることよりも、もう少し楽に、それと同等のことを可能にさせる。身体の一部が、土や木になるということにも近いかもしれない。

 たとえばワインだから、ブドウだという、その果実の味を追想するわけではなくて、人間にとってのブドウという果実との関係とは全然別のアプローチで、ブドウの世界から人間ではないものとして新しくブドウと出会うための手段なので、そこには人間が知っているブドウという果実の味は何の意味もない。ブドウがブドウとして有機体の姿をしているその場に直接触れるための手段と思ったほうが近い。

 昨日は三軒か四軒行ったのだと思うが、どうしても最後のほうはあまり覚えてないことになる。最後タクシーで帰ってきて、運転手がよく喋る人だったとか、家に着いてから寝るまでのことは、わりとおぼえているのに、いつ、どの店にいたのかだけが、なぜか記憶から部分的に欠けるのはなぜなのか。あとカネを払う瞬間もなぜかあまり覚えてない。これも毎度のことだ。いくら払ったのかを見事に忘れるのは、これはちょっと、あまり良くないクセだ。

 東上野で、もう一軒行こうと言って歩いてたら、そこがもう閉まっていて、まあ時間も時間だから当然かと言って、そのまましばらく散歩していて、人も車もまったくいない路上だったので、ちょっと写真撮ってくれとお願いして、道に寝てるところを撮ったりして遊んだ。くだらないことをしてすいません。でもアスファルトに寝るのは、やはり気持ちいい。(これまで何度もやったことがあります。)どうして、アスファルトはあれほど、誰かがそこに寝ていたぬくもりのまだ残っているベッドのように、ふわりと暖かくて快適なのだろうか。アスファルトの上にうつぶせになって、額や頬をべったりと着けて目を瞑っていると、いま自分が真夜中の外にいることの根本にある認識がゆらぐ。

 自分が路上に寝ている、しかも道路の真ん中に寝ている写真を見ると、それが路上で死んでいるように見えるわけでは必ずしもなくて、ほんとうに普通にそれが自分の寝床のように思って寝ている人に見える。真っ直ぐな姿勢で寝ている。

 あと、土下座をしている写真もあった。これはちょっと、おぼえてなかった。土下座のうつくしいかたちを追及したものと思われる。完全な土下座だ。しかしこれは、あまり面白くない。つまらないことをしたものだ。相手にもやらせているが、これがさらにつまらない。顔が笑っている時点でよくない。笑うなよ、と言ったはずだが。

 肘をすりむいていることに今日昼前に起きてから気付いた。気付いたときにはもう、治りかかっていてかさぶたになっていた。