乙武


私は、靖国通りを歩きながら、私の靴音を聴いていた。歩く、ということに集中していた。


二足歩行だなんて、重力への反抗姿勢をあらわにした態度。地面に対して垂直で生きることを選ぶなんて。どうしてわざわざ、こんなに疲れるようなかたちをしているのか。


でも人間に限らず、草も花も茎に支えられているし、木もあれだけの枝や葉を幹一本で支えて、地面から垂直に突っ立っているのだから、人も木もその意味ではまあ、同じような形をしているとも言えるけど、それにしても重力という作用に逆らうのが大変なのは、みんな一緒。


この上半身を、背中に通った柱一本で支えるというのも、毅然として大股で早足で歩くというのも、つまりは重力に逆らい続けるということとも言えるし、やはり重力を敵だと思うのではなく、それを前提条件として自分に立ち向かうべきなんだろうか。


たとえば背中から腰にかけての痛みは、立っているときに気にならなくても、坐ると、あれっと思うくらいの疲労がよみがえってくる。電車で座席に座るとき、なぜあんなに楽に感じるんだろう。体力不足でもあるし、寝不足とかストレスとか慢性疲労とか、そういうありふれた、つまり人並みに疲労が蓄積しているってことか。


それでも今、私は快適な気分で順調に運ばれていて、快適な気分も疲労も一緒に歩いているようだ。


重力に逆らい、この私を駆り立てるもの。歩行が歩行を呼ぶ勢いで、ほとんど自動的と言いたいくらいの私。上半身を支える一本の柱。さらにそれを支える起点としての骨盤。さらにそれを支える二本の足を交互に繰り出して、まるで二本の足を持つタツノオトシゴのような私。上下の動きにともなう不快な振動は最小限に抑えながら、私は私を、前方へ運ぶ。