KARA


この前、韓国のKARAという名前のグループの曲がタワーレコードでかかっていて、それが妙にツボッたというか、うーんこれはちょっといいかも、と思ってしまって、でもその場で即購入までには至らなかったので、まあそれはそれで良かったのだが、でもKARAの楽曲は、何度か聴きかえしてみても、大変しっかりしたもので、youtubeなどで色々聴いてみたが、どの曲も悪くないと思う。でも、それだけなら別に、わざわざ何度も聴きたいとは思わない。僕が感じている良さには、おそらく韓国語で歌われている事が結構な割合で強く作用しているのだと思う。


とくに歌謡曲などでは、サウンドとしては、日本の曲も韓国の曲も、大体同じような産業構造によってできていて、商品としての手触り感や質感は、かなり似通っているのだが、でもそういう似たような構造で出来ているありきたりなサウンドでも、KARAの楽曲の場合は、上に乗っかっている歌の言語が、僕の理解できる日本語ではない、というのがかなり衝撃をもたらすのだが、しかし僕はいままで、色々な歌を聴いてきて、英語やフランス語やイタリア語やポルトガル語スワヒリ語なら、その意味はわからなくても、それを「音楽」の一部みたいな認識で聴いてしまうことに慣れているけど、韓国語にだけは、慣れてないだけなのか?いやそんなことはあるまい。じゃあなぜ僕は、KARAの楽曲にだけ、ほとんどはじめてそのような印象を抱いたのだろうか??


その楽曲から受ける印象はきわめて凡庸で、通常通りの慣習的な力をかりて「意味」というものが僕の元に完全に届いてしまっていて、もう届ききってしまっていて、それがもう、あまりにも手垢にまみれた手続きで届けられるがゆえに、届いたことにすら気づかないくらいの、完全な紋切り型のパターンで届くのだが、でもそれが日本語じゃない、というだけで、最終的には何の意味なのかまったくわからないのだ。要するに僕がKARAの曲から、はっきりと感じるのは、その歌が、何を言っているのかが、わからないという事の新鮮な驚きのみなのだ。。そしてそれ以外の、何を言っているかということ以外は全部わかってしまっている。わかりすぎるくらいで、もううんざりするほどの凡庸さの印象と共にわかってしまっている気になっている。そういう奇妙な面白みなのだ。


ちなみに、KARAには日本語で歌っている曲もある。で、それも聴いてみるとまた、これはこれで、すごく奇妙な感じで、確かに日本語ではあるのだが、しかしこれがまた独特なたどたどしさで、これもまたいい感じなのだ。…ちょっとまあ、あんまりこの手のグループを良いとか言ってると、色々とよろしくないのだが…。でもなんというか、歌う/聴くの関係において、歌ってる側の歌の「意味」を、聴く方がわかってなくて、あやふやなままで色々想像している面白さというのがあるとしたら、同じように今度は、歌ってる側が、自分が歌ってる歌の「意味」をわかってないまま歌っていて、それを逆に聴く方はわかっている、みたいな面白さというのもあると思った。…そのとき歌ってる方の背後にいる黒幕からのメッセージを聴く方が受取っていて…みたいな話では全然なくて、単に、歌ってる方はただ単に自分の歌ってることの意味がわかってないという、その歌が、その歌い手が、自分が何を言っているのかが、わからないという事の「意味」だけが、聴き手に伝わってくることの新鮮な驚きなのだ。