居眠り


居眠りばかりしてたら、目が小さくなってしまった。さっきも少し寝ていた。一時間くらい?目覚めて、頭を上げてあたりを見回すと、目の前に飲み掛けのビールの缶があってまだ少し中にビールが残っていたので口に入れたら激しくまずかったのでのそのそと起き上がって缶の中身を捨てて缶を捨ててコップに水を汲んで口を漱いで、そういえば昨日も一昨日も気づくとすでに寝ていて、いや気づくとすでに朝の五時くらいで、それで起きてからコーヒーを入れたりしてぐずぐずしていたら、しだいにまた眠くなってきたので、出社までまだあと一時間くらいあるのでそれまで少し眠ろうと思った。会社から戻ってきて食事をして酒を飲んでいたらまた寝た。どのくらい寝たのだろうか。ニ時間くらい?目覚めて、頭を上げてあたりを見回すと、時計は深夜三時に近づこうとしている。洗い物がそのままだったので洗った。寝ていたときはたぶん、少し夢を見ていた。楽しいひととき。明確な記憶の片鱗。目覚めてからも激しい懐かしさのような感触だけが色濃く残っている。一度起きてからまた寝たときに夢を見やすい。起きるときはアラームの電子音で起きた。眠りの中にいながら、いつもそれが鳴る瞬間のことを必ず察知している。書くためには書くための準備をしなければいけない。そのためのコンディションが必要だ。身体が重くてだるいので横になって本を読んでいたら、次第に意識が遠くなりやがて眠ってしまう。もし書くとき、でも書くことに抵抗をおぼえるときというのは、書く事がない、というより、書きたくない、という感じ。身体的な疲れやだるさとは違う別種の反発が書く事に向かえなくする感じ。それはつまり書くための言葉を集める気になれないという感じ。書くというのは何がどうなるかよくわからない方向に向けてその気になって自分を推し進めるようなものなので、何にせよそのやる気だけは必要。でもふだんなら自分を適当に騙しながら進んでしまうと、自動で加速がついてエンジンが勝手に回りだして何とかなることも多い。でも書きたくないときはその初動すら、それをする理由が完全に見つけられない感じ。まるで自分を電源ボタンがどこにあるのかわからない電器製品のように思う感じ。でも自分の起動スイッチがどこにあるのかなんて、別に知らなくていいではないか。知ってどうするのですか。わかってどうするのですか。われわれに 必要なのは「そんなのは知ったことか」と言う勇気です。近代文学が終わった?終わってもらっても特に何も困りません。そんなことを言っても何も変わりません。どのみち文学は終われないのですから。しかし、近代文学の驚くべき企てを、なかったことにはできませんよ。あったことをなかったことにしようというのは、常に幼稚な考えなのです。もう朝の四時を迎えようとしていますが、いまは少し目が覚めてきて、ここまで来たら少し元気が出てきたので、たぶんこの後寝るけど、その前にシャワーだけ浴びておこうという気になってきました。でもシャワーを浴びたらまたビールを飲むだろうか?ビールはじつに無駄な飲み物だ。