バーネット・ニューマン


川村記念美術館でバーネット・ニューマン展。相変わらず佐倉は遠いが、川村はやはり良い。


アレキサンダー・カルダーの特集展示っぽい小さなコーナーがあって、これが大変良かった。カルダーの素晴らしさを改めて感じた。吊り下げられたいとおしくも好ましいかたちの小片が、空調の風に促されてゆっくりと回転していたり移動していたりするその移ろいを見ているだけで充分に面白いのだが、その構造が、いわゆるモビールで、支柱からぶら下げられて重量の配分を計算され適切な配置を施された上で、計算ずくで実現されていて、その計算ずくである事が自明になっていること自体も面白い。製造工程には偶然の要素など存在せず、完全な予定調和によって作られていて、まったく不思議なことなど何もないのに、それがこれほど面白い結果を出力し続けることそのものが面白い。僕の中の先入観としてモビールなんて単なるモビールだというのがあったのだが、実際にモビールを見ると、ああ、モビールって実に不思議で面白いものだという事をまざまざと感じさせられる。まあしかし、モビールなら何でも面白いわけではなくて、そこはやはりカルダーが面白いということだが。ちなみに美術館の外の公園にはたくさんのハギ(萩)が生い茂っていて、その葉のかたちと在り様が、あまりにも美しくカルダーに呼応していた。


ほかに、本日の印象的だった作品だと、ジョセフ・アルバースとか、あと妻が今日はステラがなかなか気持ちよかったと言っていた。僕も川村に行くたびにステラは良いなあと思う。80年代以降のヘヴィメタルなステラ。その例えで言えば、ステラの作品はもっとも高品質なヘヴィ・メタル・ミュージックという感じで、重機械的な重々しくどろどろとした暗くて陰鬱なものから遠く離れた、金属の明るさというか、軽さというか、ブライトネスな感触というか、そういうのが金属の重たさと渾然となっていて、まさに軽快で乾いた明るくて心地よいヘヴィ・メタル・ミュージック的な音圧をずっと聴いているかのようで快適。


快適といえばロスコルームも快適きわまりない。なんだかんだ言っても、ロスコルームに居るとこのまま何時間でもここに居ていいやという気持ちになる。ある種の幸福感を否定できない。この、今自分が感じているこの幸福感とは一体何なの?という疑問もあるにはあるのだが。


その意味で、ニューマンはロスコルームほどのわかりやすさはない。しかし、やはりニューマンはニューマンで、ニューマンを観るというのは自分がニューマンと同期するという事なのだと改めて感じる。時間は、いくらあっても足りない。なにもあたえられないからこそ、ありとあらゆるものを感じずにはおれない。その在りかたそのものだけを信じつつ、おそろしくとめどもない心の動きを感受し続けるだけ。


インタビューで構成された30分の映像作品(60年代のテレビ番組)が上映されていて、それが面白かった。ニューマンがカメラに向かって「芸術家をカメラで撮って何の意味があるのかね?仮にミケランジェロピエタにノミをいれてる映像があったとしても、それが一体何の価値があるのかね?」なんて言っていて、確かになあと思ったが、でもニューマンという人のそういう感じを映像で見ることができる事の面白さっていうのは、やはりすごくある。なるほど、こういうおじさんなんだなあと思ったし、生涯をほぼマンハッタンで過ごしたという文字的情報と、実際にマンハッタンを歩いてるニューマンの映像を見るのとでは、やはり相当色々違う。それにしても喋りがすごく上手で面白いおじさんだ。