落語


快晴だが風が強く寒い。一時間ばかり歩いて図書館で本を返却して、久しぶりの店で一人でランチで昼酒をする。料理はそうそうこのソースこのバター感この熱加減、ああいいねやさしいねとほんわかとした気分になって嬉しくなる。二時間半ばかりすごしたのち帰りも歩いて帰宅。がっつり食ったので夕食は軽めにスーパーの惣菜とかいいかげんなものを適当に並べただけで済ます。NHKで、落語家の語りをそのまま口パク的に各役者がしゃべりあう芝居でドラマ風に映像化した、いわば落語を見やすく分かりやすくしたような番組がやっていて、僕は落語について知見がほぼゼロなのだが、まあそれは見ていてそれなりに面白いというか、ああなるほどねえというか、こうして映像で見ると場面が変わったことは容易にわかるけど、これ話聞いてるだけだとわかるだろうかとか、あえて映像を見ずに耳でだけ聞いてみたり、そうしたら「けんげしゃ茶屋」という上方の古典落語が始まって、これを聞いていたら、ああなるほどこういうのは如何にもだなあと、単純に聞いてると、単なる駄洒落というか、韻を踏みまくって楽しいみたいな話のようだが、どうも笑いと呆れと畏れがまぜこぜになったような、一瞬ちょっと真顔になってしまうような、落語の元々もってるこわい要素のあるヤツってことなのかな、そんなニュアンスも少し感じるな、とか思った。金持ちの旦那が退屈して色々といたずらをして周囲が驚き困るみたいなことなのだが、こういう果てしない魔の退屈感というか、ほんものの金持ちの怖さというか、表層的笑いにくるんでるだけの、実際は夢も希望もない底なしの厭世感の凄みみたいな、日本という場におけるそういう感じを知りたければやはり落語なのかなあと。少なくとも二十世紀ではなく明治以前の江戸までさかのぼらないと、ほんとうの倦怠、蓄積され発酵し腐食し始めるほどの分厚い飽食感とでも云いたいような感じは日本に無いのかもしれないとか何とかぼんやり考えたりもした。