Cornelius、濱口

スペースシャワーTV Cornelius "Mellow Waves Tour 2018" Documentary Part1を見る。Mellow Wavesリリース後のコーネリアスアメリカツアーの様子だが、これは…すごい、やはり去年コーネリアスのライブは観ておくべきだったかもしれないと悔やむ。こんな面白いロック・バンドが他に存在するだろうか。そうだしかしコーネリアスはあくまでもロック・バンドなのだ。何というシンプルな、音そのものの構成でしかないアンサンブルだろうか。シンセの音やドラムの音やギターの音が、まさにそのまま、そのように音が出ているがままである。演奏するにはかなり超絶技巧的な楽曲ばかりだと思うが、所謂ジャズフュージョン系なバカテクの匂いなど微塵も感じさせずにそのまんまで演奏されている、というよりも自動出力されている感じだ。絶対にジャズにはならないしR&Bにもならない(しかしDrakeのPassionfruitをカバーしてたり!)。完全な手作業で、まったく電子音楽的ではないが、電子音楽以前ではありえなかった楽曲であることもたしかだ。何しろどうやって組み上げられているのかは全部見えてしまっている。練習さえすれば誰でもできそうとすら言いたくなる。そしてこれは、とりあえずロック・ミュージックとしか言いようがない。あの取り付く島のない単純なギター音楽としかカテゴライズできない。ライブなのに後ろのスクリーンにイメージクリップを流し放しで、客は音と連動した映像イメージをずっと観続けるのもこれまで通り。昔このブログで僕は「音と映像のシンクロ具合は確かにすごく面白いが、基本的に、映像は映像だけで完結した作品という感じであり、あくまでも演奏のBGV的位置づけなので、映像とサウンドが有機的に絡み合ってるという感じはしない。」と書いたことがあるが(2009-05-17)、今回はそう思わなかった。有機的ではないけど、BGVだとも思わなかった。コーネリアスのメンバーは演奏中ほとんど動かないので、映像を見ているしかないというのもあるだろうが、それであらかじめ用意された音を聴いているような印象もないし、ライブ感が消えてしまうわけでもない。むしろ映像イメージの動きの意外性や面白さと今ここで演奏されている音のそれとがちゃんと重なり合う。先がどうなるかわからないような不安と緊張のスリルをライブ感と呼ぶならば、ここにはきちんとライブ感はあって、それが映像を重なって、映像の(猫がどんどん歩いていって、部屋を横切って、町を横切って、自転車の買い物籠に乗って、そのまま空へ昇っていくような)「物語」的なものと組み合わさりとが両立してしまっているのは、すごく面白い。こんなライブ、やっぱりなかなかありえないだろうと再三思う。


濱口竜介「PASSION」テレビ放映時の録画を再見する。各登場人物の、荒唐無稽に近いくらいの関係のもつれというか絡み合いが錯綜する。男女間の揉め事の様々なやり取りを、夜から朝にかけての限られた時間内にぎゅっと圧縮して同時多発的に展開したかのような、非人間的メロドラマというか検証実験的な感じ。世代とか時代とか貧富とかモテるモテない属性とか、そういう個々に背負っている何かがあるようで、実際はそうじゃないというか男女の差異すらなくて全員交換可能なくらいの、均質なビリヤードの玉がぶつかり合って連鎖的にごろごろと転がってるだけみたいな面白みがある。


濱口竜介「天国はまだ遠い」テレビ放映時の録画、こちらも再見だが、やはりこれは傑作。妹はそもそも、あの男に何を期待していたのかわからないが、姉の男への憑依が成立して以降は、愛憎半ばした態度ながら妹は涙を止めることができない。わかっているのに騙されてしまう、その虚構に対して抗いようがない状態におかれる、まして二回目は自らそれを求め、相手を抱擁し、自らカットの声をかけて止める、といったあたりに、情感や哀感とかすかな背徳的エロ感が混ざり合って、とてもいい感じ。この怒りや悲しみと、しかしそれに執着してしまうどうしようもなさは、新作「寝ても覚めても」の主人公朝子に強烈な熱さで受け継がれているように思われる。