秋を歩く


曇り。肌寒さと景色から受ける印象とが自然な感じになってきて、今後も引き続き、紅葉が始まる頃までを、それはそれでまた窓ガラスから景色を眺めるようにして見ていきたい。景色と一緒になって僕もすすむ。今の気温は二十一度だが、来月には十度とかそれ以下になる日もあるだろう。さらに冬になれば、五度とか、三度とか、そういうことにもなるだろう。マイブリッジの写真一枚一枚のように自分がおっかなびっくり歩を進める。その一枚一枚をつなぎあわせて連続再生させても、決してスムーズなコマ送りにはならず、連続した運動の再生にはならないような連続性で、破綻したマイブリッジの写真のように、次に足を出す先をさがし、身体のバランスを制御しながら、かろうじて歩く。駅から住宅地を抜けて歩く。秋の曇り空の朝の、あたりまえの雰囲気。左右を巨大な団地にはさまれた長く続く一本道を、おっかなびっくり歩き続ける。もうずいぶん歩いているが、道はまだ視界のずっと先まで続いている。車道をバスや乗用車が行き来して、両脇の歩道には左右共に人々が歩いている。僕と同じ進行方向の人が多いが逆方向に行く人も少ないわけではない。ときおり、車道に車の走行が切れたのを見計らって、何人かが反対側まで小走りで車道を横断する。それからまたしばらくして車が何台か行き過ぎる。また道路が空けば、さらにまた何人か、小走りに車道を横断して反対側の歩道まで行く。僕もさっき反対側に来て、それからはしばらくずっとこちら側を歩いている。前の人から二メートルくらい後方を歩いている。前の人の歩きかたや鞄を見ている。なるべく同じ間隔で同じ速度で歩いている。なぜか偶然、間隔が保たれるような速度で歩いている。その僕の五メートル後方にも、また別の誰かが歩いていて、また五メートルか、十メートル後に、また別の人が歩いていて、さらにその後ろにも…という感じて、決して密集した行列ではなくまばらな連なりだが、しかし、どこまでも人の列が続いている。みな、通勤中である。仕事である。十月八日は金曜日である。会社に向かうのだ。会社へ向かう人々の歩き方は、みな共通した特長がある。男性はだいたい、こころここにあらず、といったかんじで、一定の速度と運動量を必要最低限維持しながら、ややだらしない感じで、やる気はまったくないけど最低限の燃料は暖めておきつつ、帆をややたるませたままの船が進むように移動している感じ。女性は小刻みな歩幅で、やや一生懸命さがかんじられる動きで、右足と左足を交互に運びながら自らを前方に進めていて、その事にとりあえずの集中力を絶やさずに、内部機関が露出していてシリンダーやピストルの運動がよく見える乗り物の感じ。男性より女性の方が、一生懸命な感じだ。走っているのも、女性が多い。たまに、僕を追い越して走っていく女性もいれば、こちらに向かって小走りで走ってくる女性もいて、たぶん急いで駅または会社に向かっているのだが、かなり長い道なので、あと十分以上は、ああして走るつもりだろうか。だとしたらかなりの運動量だが、女性がかなり遠くから、小走りでこちらに向かって走ってきて、やがて僕とすれちがって、そのあとも引き続き走り去って行って、上半身を揺らしながら右足と左足の交互に差し出されて、まるでモノを咀嚼し続けているかのような、内燃機関が連続回転しているかのような奇妙な顫動運動の過程が、マイブリッジの写真の破綻したイメージのように、その走る女性が僕の視界から消えた後も、映像に結実されない残像として、歩道の中核にしばらくの間、ありありと残り続けている。僕は、その一連のイメージの残滓を感じながら、あれはまるでホンダのアシモだ、もう少しでアシモのようになると思う。