音声


少し苦しそうな寝息の音。寝返りを打って毛布を引っ張る音。眠っているときの音は、すべての人間にとって、まったくの平等さをあらわしているかのようだ。どんな人間であっても、眠っているときに立てる音に違いはない。人間の眠りの音の、その違いのなさ、わけへだてのなさ。人間はなぜ眠らなければ生きていけないのだろうか。眠るというのは、眠っている人間は夢を見ていたりもしながら時間を航行して生きているのだが、外から見ていると、眠っている人間と死んでいる人間の見分けが付かない。そもそも、平等という言葉が、そもそも、人間の側から提示した言葉でしかない。そもそも、人間以外の側から見て、平等性など理解の範疇外である。というか、平等は平等だが、自然の側から眠っている人間を見たら、いきなり死も生も平等ということになってしまう。物音に違いがないように、眠っている人間のたてる音にも違いがない。眠っている人間のいる室内では、物音に限って言えば、物も人間も同じような音の在り処ということでしかない。


物が、登場人物の主観のフィルタを通じて見えた物ではなく、物そのものとして、そこにある。人間も物と同列としての前置きを必要とせず、いきなりベッドや戸棚と同時に存在可能だ。時計の振り子が左右に揺れるときのかすかな歯車の音と、ふいに動いた腕が毛布の裾を引っ張ってシーツとこすれあう音とに違いが無い。そのとき時計の振り子を主語にして言葉が成立可能で、部屋ぜんたいを主語にしても良い。というか、そういう風にある条件で何かが可能になったり不可能だったりする事自体が不思議なのだが。何かを書くというのは最初から人間の頭の中から書くと、一体誰が決めたのか。自然からいきなり書けないものなのか。ずっと点けっぱなしの電気をなるべく切って、真っ暗にしていつものようには何も身動きできない状態にした方が良いのかもしれない。そうなると、何がどうしたのかを受け入れやすくなるかもしれない。とはいえ、この自分を自然な状態のままにできるとも思えない。どこから声を出すのか。どこから音を出すのか。