今日久々に東京拘置所周辺を歩いたが、今まで記憶していた景色とはかなり変わっていた。拘置所を囲っていた外塀はここ数年で全部撤去されてしまったらしく、いきなり開かれた広い空間に、ひとつ急に生まれたような感じで、建物とか今まで見えなかったはずの景色がみえている。歩いていると、そういうのがところどころある。壁は消えたわけだが、この壁はなくなった訳ではなくて別の形式に変容した、不可視になったということなのだだろう。もちろんそれも実際知ってるわけではないからよくわからないが。
拘置所に隣接して新しく作られた国家公務員用の官舎はすでにたくさん居住者が居て、拘置所も含めたこれら一帯が、まったく何の変哲もない新興の集合住宅地帯という感じになった。駐車場にはワンボックスのファミリー向け自動車がいっぱい止まっているし、駐輪場にも自転車や原付がぎっしりだ。ベランダにたくさん洗濯物がぶら下がっていて、生活の活気がある。そのまま隣の拘置所の黒い窓の外側にも同じような洗濯物がぶら下がっていても全然違和感はないだろうが、勿論それはない。
ふたつの建物を見比べていると、手前の建物(官舎)と奥の建物(拘置所)で、居住者の自由に何らかの相違があるという事実が揺らぐように感じる。実際どの程度違うのかは、具体的にひとつひとつ確認してみないとわからないかのような気がする。
色々なことが変わっていって、何がどう変わって、今どうなっているのか?というような事を、それなりに一応知ってなければいけないというのは、実際に強制的な力としてあるものだ。こういう風景を見ると「知ってなければいけない」という強制的な力を、なぜか感じてしまう。ああ面倒くさいものだなあという気分が沸き起こってくる。でも何を知ってなければいけないのか?はよくわからない。