頭の上の方から素っ頓狂な甲高い泣き声が聴こえる。さっきからずっと、すごい声量で泣き喚いているので、あの人は、あんなにでかい声で鳴いて、あのままずーっと鳴き続けてられるものかね。と言ったら、あの人?…ああ、あの鳥?ね、もしかすると明日になったら声が枯れちゃってるかもね。と言う。歩いている通りの曲がり角の向こうの道端に、猫がまっすぐにこちらを見て坐っている。あ、猫だ。まっすぐで姿勢がしゃんとしていると言う。猫のまっすぐに坐っている姿を真正面から見ると、その喉元から胸にかけてが堂々とした感じでとても姿勢が良く見えるね、と。それにもかかわらず背中は猫背で、胸を張っているのに背中が丸いなら、そのかたち全体は猫だね。という。猫のかたちだよね、と。そのまま歩いて線路に突き当たるところまで行った。この通りは寄り道したくなる店が多いんだよ、夜歩いたらきっと寄り道したくなるよ、と言う。しかしその通りにそんな店は一軒も存在していない。そして駅の切符売り場で切符を買う。なぜなら次の駅から僕は定期券を持っているからだ。しかし切符を買って次の駅から定期券を使う場合、目的地の駅では自動清算機で清算できないのだ。駅員のいる改札口で事情を話すと駅員はそこを通してくれた。そして僕らは反対側の出入り口を目指して歩いた。ふと気付くと階段があり、それを昇る。老人が手摺りに掴まりながら階段をゆっくりと下りてきて、後ろからその老人を追い越して先を急ごうとしていた女性が、反対車線側の対向車のごとく階段を上がってくる僕らに気付いて、老人追い越しを一時的に見送って、その老人の背後で待機状態のようになったので、僕らはやや早足で二人とすれ違った。その後で老人は人から追い越されてしまったのかどうなのかは後ろを振り返って確認しなかった。その数時間後、用事の済んだあとで我々は電車から降りて、階段を下りて地下道をぐるっと反転して仲御徒町駅方面まで歩いた。


美術展など展覧会の絵を見るとき、自分はああ、絵を見る事を忘れてはいけないと思う。最初にそれを思うのだ。その後でしばらくすると、絵が良いときであれば、後はもう自分のペースではなくて絵のペースになる。流れ続けるものを延々と見続けるような状態になる。そのときはおそらくかつてこの絵を描いた人がこの絵を見て感じたであろう喜びの追体験の錯覚だ。その錯覚はこちらがあえて身を話さない限り、それを見続けているうちはいつまでも続く。しかし絵で、それをよくぞ信じることができたなという作り手への驚きを感じる事があり、そのときにやや醒めた気分になって正気に戻る。それが成り立つことへの確信をどうやって手に入れたのかを、畏れの思いと共に感じて、そのときもう自分は自分のペースに自ら戻ってくる。奇妙なのは、もう充分に絵のペースになっているにも関わらず、わざわざそこから降りて、それを発信した側の確信を見ているこちらがわざわざわかりもしない事で驚いているということだ。それはまるで盲人が、自分の手を引いて歩いてくれている人に向かって、あなたはそれほど方向感覚が良くないのでは?と疑っているようなものである。自分のイメージを相手に押し付けて、疑い深さが正しさだと思っているのではなく、もっと無根拠にあけすけに他人に身を任せるようにしなさい。


能條純一「天の男」という漫画を読む。殺し屋の話。依頼を受けて、相手を銃や銃剣で殺すのである。しかしピンチのときや、自分の存在というか、アイデンティティが揺らぐような情況になると、自裁する。話の最初の回と最後の回で、その殺し屋は二回も自害する。一回目は死ぬ前に助けられたし、二回目も未遂に終わるのだが、しかしどちらも死んでいるとすれば、なんだかまるで死なない人間のような感じにも思える。映画や漫画は物語の長さやキャラクターの設定やその他いろいろな要素が、出版社とかプロデューサーとかの様々な外的要因の影響を受けやすいだろうから、場合によっては異常なまでの説明不足とか異常なまでの飛躍が行われることがあると思うけど「天の男」にもそれが感じられて、しかしそこがむしろ妙な味わい深さともなっている。あるいは一回目で死んでしまっているのに、二回目で生き返ったとも考えても良いのかもしれない。というか、簡単に死んでしまうような世界なのかもしれない。とにかくそういう根本的な世界設定というか、根底的論理形式の欠如があって、そこがいい加減なお話の面白さだ。すべてが荒唐無稽で、さらにそこに説得力を持たせる役割までが圧縮されてところどころ欠け落ちていて、陰惨なのに軽い、不思議な味わいを感じさせる。


その後で能條純一月下の棋士」単行本の8〜10巻を読む。大原との対決から秋葉原の将棋倶楽部での滝川との対戦まで。ここが「月下の棋士」の白眉。でもひさびさに改めて読んだが相当荒っぽい話の流れで殺し屋の話と同じくらい荒唐無稽。ある一瞬の人間的な心理的な緊張感の空気だけでぐいぐい進む。