カナヘビ


Aが、Bである。という形式の書き方を、もうやめることができないだろうか。単に、Aである、とだけ言えないものだろうか。Aを、Aであると率直に書き表すことができずに、Bを呼び出してしまうという、いつものマンネリズムにうんざりする。


運悪く、いきなり不条理で絶望的な運命に囚われて、のっぴきならぬ情況に追い込まれまさに絶体絶命で、身の不運を嘆く暇も無いまま、もうこうなってしまったら、今更どれだけ考えても無駄だろうという状態に陥ったとしても、それでもその状況下で人はひたすら考える。考えるのをやめるということは決してない。そしてそのとき考えた事は、全て完全に、無駄じゃない。と僕は思いたい。


追い込まれた人は考える。いったい何を?わからないけど考える。考えて考えて、考え抜くことだろう。このダブルバインドにいったいどんな意味があるのかを、徹底的に考える。限られた短い時間の中で、それはまさに文字通り、徹底的に考え抜くということの実践である。きっかけもなければ成果もない。ただ考えが閃光のように巡る。なぜ私は今、このような情況にいるのか。この衝突するふたつの力はいったい何なのか。


衝突する力。衝突が生み出す痛みと苦痛。その感覚の只中で、考える。考えるというとき、その身体の枠の中で考えるということだ。苦痛の只中で考えるということだ。たぶん身体は「フレーム」とか「環境」とか「条件」とか、そういった類のものではないはずだ。そういう外枠的なものではない。そういう中で、考えというものが、ソフトウェア的に走るわけではない。そんな馬鹿げた子供のおもちゃの秘密基地みたいなものではない。今このとき、考えるこの私が、苦痛を感じているはずなのだ。この私の苦痛を、この私の考えが駆け巡ったあとの、まぶたの裏に浮かぶ光の残滓。


私が力を込めれば、私の腕や足は周囲に対して力を伝達しようとする。だから確かにこの私はこの身体に乗っかっているのだろうとは思う。それはそれで確かだろう。でも私が頭部の操縦席に坐っている訳ではないのだ。私が、力を込めるとき、私は私の腕なのだ。私がぐっと筋肉を固くして下半身全体で突っ張るとき、私は私の足全部なのだ。


人間の脳は頭部にあって、中央集権的な処理を司っているが、たとえば蛾の脳は、細い管で繋がった状態のまま頭部と背中と腹部あたりに三箇所分散配置されていて、頭部の脳は身体全部の制御を担当し、背中の脳は飛行全般を担当し、腹部の脳は生殖を担当するらしい。(ものすごくうろ覚えの情報を調べもせずに書いているので間違いの可能性大ですがご了承下さい。)だから蛾は、たとえば頭部が切断されてしまっても、それこそしばらくの間は飛行を継続し続けられるし、下手するとそのまま生殖もしかねない。ものすごい分散構造である。


それとは全然話が変わっちゃうけど今日テレビを見ていたら、どこかの国の砂漠地帯に生息する、カナヘビというトカゲみたいな生き物が出てきて、そいつが面白かったんだけど、その砂漠はものすごく暑くて、直射日光に晒されている砂の表面温度が異常に熱いため、カナヘビは、四本の足の裏を、じかに地面に設置し続けていることができないのである。だから、じゃあどうするかというと、四本の足の、右の前足と左の後ろ足だけを、ひょいと宙に持ち上げて、残った前後の足だけで姿勢を保つのだ。そのまましばらくして、地面に設置してる二本の足の裏が熱に耐えられなくなってくると、今度は今まで立ってた左前足と右後ろ足を、さっきと同じようにひょいと持ち上げて、今度はそれまで冷ましていた方の足で、引き続きその場にじっとしてるのだ。


で、それでずーっと日中、そんなことばっかりやってるのか?というと、それはよく知らないけど、でも熱さが尋常じゃない日などは、その作戦もダメなときはダメで、そんな足の裏交換では間に合わないくらい砂漠の地面が熱いときもあるらしく、じゃあそううときはどうするのかというと、もう最後の手段ということで、今度は四本の足全部を宙に浮かべて、そのまま腹這いで、腹を直接地面に設置させて、なんとかその場を耐えるらしい。腹だとどのくらい平気なのかはわからない。何度も言うけど僕は専門家ではないので。


そのテレビを見ていて、こいつは日中、ずっとこんなことをやってるのだろうか?というのが、さすがにまず、疑問として浮かんだ。足の裏の熱さに耐えるだけが、やるべき事でもあるまい。もっと他に色々な営みもあるのだろう。まあテレビだし、この報道の編集方針というか、余計なところはハサミが入っているのだろうけど、それにしてもこの生き物の人生の不毛さというか、その不条理さには軽く衝撃を受けた。とりあえず、僕ならこんな人生は嫌だと思った。上手くやってるという賞賛もあるのだろうが、僕にはそれほど立派だとは思えない。単に今の、この場の問題に、今やれるだけのことをやって、かろうじてギリギリで順応しているだけじゃないかと思ってしまう。もっと抜本的な生の見直しとかをすべきじゃないのか。だって単に熱さを足の裏の設置面を交互に変えてやり過ごすために生まれてきただなんて、あまりにもあんまりじゃないかと思う。