疲れと睡魔


今日は清澄白河に行って美術展を観たが、とりあえず入ったら最初の部屋か次の部屋くらいに、寒椿を描いた青磁の正方形のタイルが飾ってあって、青磁の表面がすごくきれいだし、色も青がものすごく鮮やかで、それが全体的になんとなくきれいだったので、ずいぶん長いこと見ていた。でもそのうちかなり絵にシンクロしてしまい、かなり長時間その部屋にいたかもしれない。ああやって、何枚も何枚も見て描いてるような絵がたくさん並んでいるのは好きだ。色々な向きから、次はこれ、次はこの角度でと、延々見つめ続けているのを、同じように感じている気分になれる。同じように感じるというのも言葉に書くと簡単だけど、正確な言い方ではない。同じ時間の中にいるという言葉の方がしっくり来るかもしれない。その絵の作られた瞬間の前後というか周辺に、唐突に自分が滞在して行為の最中という感じだ。そのときの何分だか何時間だかの、その只中にいる。その中で、自分がそれを描いている強烈な緊張感に見舞われる。無茶苦茶戦闘的な気分でもあるし、ものすごく失敗をおそれる気分でもある。そうなると絵が必ずしも自分を置いて立派になってくれなくてもよくて、むしろ甘い見込みの一手なんかを発見して、それに安心するような気分さえ沸き起こる。そういう箇所に甘い寝床の匂いを嗅ぐ。でもそうして見ている間中、胸の鼓動はいつもの倍くらい早く打ち、全身から汗が出て、呼吸さえ上手くいかないような強い緊張状態になる。果敢に筆を走らせ躊躇なく攻める姿勢を見てすごいと思いつつ、この繰り返しだとさすがにもうきついよなあと思ったり、別にもうわかってんだろ?と呟いたり、まだこの先何か信じられそうですか?と尋ねて見たり、いずれにせよ他人事ではなくいつまでもその時間に絡め取られて、終わったと聞いてあぁー終わったんだと思ってたのに、次に会ったときにはなんだか虚脱状態になってぼーっとしてしまって、あまり意味がないような現状だ。絵の中に完全に入り込んでいる。絵はもともとそんな風な、本来かなり刺激の強いものなのだ。それで考えが考えを呼び、思いは乱れたまま、どこかを漂ってるような瞬間を乗り越えて、またあらためて作品を見て、とりあえず分解を試みて、この箇所がとくにすごいからと言って、そこを見てもそれはまたその箇所らしさがわかりやすく出ているわけでは全然ない。そもそも最初の打ち合わせには出てこなかったパターンのはず。中枢部がろくな検証もせずに送り込んでいると思って間違いない。なんでこんなことになったのか、…さすがに3日目か4日目…皆の表情にも疲労の色が浮かんでいる。とにかく最初にすごいと思ったから、今近くに寄らせてもらって、そのおかげで目を凝らして見てみることができるのだが、でも見れば見るほど奥に引っ込んでいく。そこにあるのに、今この目の前にあって、やろうと思えば手で触れる位置にあるのに、ある、ということを意識した途端になくなる。絵を見てるとき僕はいつもまずそこが不思議だ。他の人はどう思ってるのかは知らないが、少なくとも僕はいつもまずそこ引っ掛かる。そして絵の前を立ち去るときも他の人はどうかわからないけど、僕はよく思うのが、絵の前から立ち去って、同時にその場に何か置いてきてしまったような感覚だ。