鳩屋梢


家を出てしばらく歩くとすぐに小さな公園がある。ちょうど今、早咲きの桜の木が並んで満開に近いほどの勢いで咲き誇っていて、その下をあるく人がみんな真上を見上げてぼんやりと佇んでいる。自転車やバイクも止まって、しばらく桜を見て、また走り行く。商店の閉まったシャッターを背にして、携帯のカメラを上に向けたままずーっと持ったまま身動きしない人がいる。でももうあと一週間もすれば、その公園と細い路地でつながったもう少し向こうにあるもっと大きな、公園のメイン広場から駅前にかけて延々と続く桜並木も、次第にあの白い花がふつふつとふくらみ色づいてくるだろうから、それでやっと、町全体というかその周辺一帯がはじめて春らしくなるんだろうけれども、まだ今は、このあたりでたまたま、やけに気の早い数本の桜だけが一部の人の注目を浴びているという情況。まだ春が人の人いきれや手垢にまみれてないまま、冬の清潔な新鮮さも保っているようで、ある意味いまが一番いい季節かもしれない。で、それはともかく、僕はいつも桜の下を抜けて駅方面まで歩いていく前に、ちょっと遠回りして、脇に広がる小さな池に沿った小道を歩いて、草木が少し茂って薄暗くなった先の、その後に急にぽっかりと広がる小さな行き止まりのところまで歩くことにしている。そこには、なぜか唐突なことに、お墓があるのだ。小さな墓石が立っている。お地蔵さんとか、動物の墓とか、何かの記念碑とか、そういうものかと一瞬思うが、違うのだ。これは、人間のお墓である。墓石があって、何か文字が刻んである。線香や供え物があったかすかな痕跡もあるが、まあほぼ墓石だけの状態だ。僕はいつも、その墓石の前に立つ。そして、別に何もせず墓石を見下ろして、しばらくすると元来た道を引き返して、そのまま出勤するのだ。別に線香に火を付ける訳でもなければ供え物をするわけでもなければ、周囲を掃除してあげる訳でもない。ただ墓石を少し見下ろして、ほんの少ししたら、立ち去る。それが僕の一年半前からの、朝の日課だ。


その墓の下には、鳩屋梢という名の女が眠っている。没年は2006年4月2日。享年36歳。埼玉県所沢市に生まれて、1996年に東京都足立区に転居。以後亡くなるまで、その地で暮らしていた。生前の彼女を僕は二度見かけたことがある。もちろん僕と彼女は、知り合いでも何でもなく、面識もなければ話をした事も無い。僕は最初、彼女の姿を見てから、たぶん一年くらいして、二度目に見かけたときには、ああ、あの女だ。と思い出した程度には、自分の記憶に残っていた。でも彼女はそうでもなかったろう。二度見かけて、そのどちらも真冬の寒い日の夜だった。最初見かけたときは、あれからあの後、どうするつもりなんだろうと思った。それから一年してもう一度見かけたときには、ああまたあいつだ、とも思ったものだが、でもいずれにせよ、家についた後そんなことはすぐ忘れた。帰り道の出来事や、そこで見た事など、実にきれいさっぱりと、忘れられるものなのだ。


もう寝る時間になっちゃった。疲れたし、今日はここまでにしておこう。続きはまたいつか。