谷中

千駄木の古本屋へ。近々移転されるとのことで、この店舗を我々が訪れるのは今日で最後かもしれない。店を出てから人通りの多い界隈を日暮里方面へ歩く。このへん、昼から通しでやってて日本酒と魚の美味しいお店があると嬉しいのだけれども、どこかにないものか。ためしに入った蕎麦屋は悪くないけど飲むにはちょっと…という感じだった。それにしても谷根千の一帯は人通り多くていつもながら若干苦手だ。そういえば坂道を登ったところにあったもう一軒の古本屋はつい最近店を畳んでしまったようだ。

日暮里駅手前から谷中霊園に入って散歩を続ける。ここを歩くのははじめてではない、桜の時期は人も多いが、そうじゃない時期でも何度かは来ている。他所の家の墓を見て、何が面白いのか、知らない土地の住宅街などを歩いているときの感覚に似ていると言えば似ている気がする。他所の家を覗き込んでその暮らしを想像する、墓も家も一緒である。でかい家はでかくて、小さな家は小さくて、家すら持たぬ者も多数いる。我々もそうだ。

角を折れてすぐ、喪服を来た集団とすれ違う。はじめに年配の男女が連なって歩き、その後で、少し若い男性が数名、女性が続いて、手をひかれた小さな子供もいる。少し離れて歩く中学生くらいの女の子と目が合った。するどい眼差し。親族一同なのか、いまどきあれだけ大人数での墓参りなんて珍しい気もする。お彼岸とかの季節でもないし、もしかしたら我々と同じように何周忌とかあるいは今日納骨とかだったのかもしれない。その一群とすれちがってしばらく行くと、霊園はひっそりとしており、花も線香の供えもまるで見かけない。やけに荒涼としているのだ。古くて巨大な墓石。家系、血、連なりの威力というか歴史というか、おそろしく風化した墓石なのに、墓碑だけ新しくて、数年前に亡くなられた人の名前だけ刻まれていたりもする。まあ、青山とか谷中とかこういう一等地の墓地を見てると、世の中には偉い人が、たくさんいたんですねとか何とか、そういうことを思いもする。もういったい何年このままなのかと思われる墓石も多いが、そのような放置が、それはそれで悪いように感じない。このくらいの時間スパンでちょうどいいかもしれないと思う。

あと、たまに目に付く最近の墓石はほんとうにセンス悪いというか、墓銘碑に刻まれた言葉がダサすぎる。いくつかのパターンから選ぶことになっているのだろうけれども、本当に嫌になるような情けない言葉ばかりだ。子供に変な名前付ける親を笑う風潮があるけど、それと何も変わらないというかむしろこっちの方がタチ悪いかもしれない。嫌だなあ、死の準備に至る時までこんなダサい商品選択の余地というかリスクが残っているのかとげんなりしながら、とぼとぼと歩いていく。徳川慶喜の墓を示す矢印になんとなく従って進みつつふと脇を見ると、昨年亡くなった有名な劇団主の一族の墓を偶然にも見つけてしまった。墓全体を包むように沈丁花が植わっていて、墓石の裏に故人のものと思われるまだ新しい卒塔婆が立っていた。

その後一時間かそこら墓地内をうろうろしていただろうか。最近流行の集合住宅みたいな集合花壇みたいな商品プランもあるようで、しかし値段見るとさすがに高い。どうせ我々なんて子供もなく死んでも誰も墓参りなんか来ないわけだし、どうでもいいのだけれども、それでもどうせなら前に見たあの寺の墓なんかいいじゃないか、あそこ分譲してないのかしらなどと、妙に話が終わらないのはなぜか。不動産に手を出さない人生だったけど死後は別なのか。いや、まあ買わないけど。

寛永寺の通用門みたいな場所から上野中学の脇を抜けていくと、国際子ども図書館の立派な建物があって、その隣に黒田記念館がある。黒田記念館には、僕は今日はじめて入ったのかしら。そんなことないと思うが、以前来た記憶がない。二階に黒田清輝と師匠ラファエル・コランの作品が半分ずつくらい展示されていて、いやあ…これは…と思いながら会場内を歩いた。黒田よりもラファエル・コランの作品を、より丹念に観たかもしれない。もはや美術としてとくに、どうのこうの言うよりも、昔の、フランスの、アカデミックな、絵とはこういうものという、その信じられていたことの質感だけが、時空を越えて今ここに現存しているといった感じで、人体、光、陰影を観察して、目が追い、手が描く、ということの、あまりにも遥かなる過去の時間。

今から大体、百五十年くらい前だ。ちなみに谷中霊園の開園も、同じような時期らしい。百五十年は遥かな昔だと思う。僕の想像力では、とても届かないと感じる。しかし日本の近代はまだ百五十年ほどの歴史しかもたない、という言葉もまたそれほど違和感を感じない。この二つの百五十年という言葉は、同じ内容を意味してない。というよりも、いつも思うけど百五十年だなんてもはや時間の単位ではなくて、此方ではない場所みたいな意味で使った方が適当かもしれない。