油絵


絵を描くというのはまず何よりも、その描くという行為の結果が自分にとってすごく新鮮でリアルな感触として跳ね返ってくるようなものでなくてはいけない。いけない事はないかもしれないけど、少なくともそうでないと楽しくない。


絵を描くことがつまらなくなってくるのはなぜかというと、自分のやってることがつまらなくなってくるからである。自分のやってることが自分にとって面白くなくなってしまう。


ほんとうなら自分の描いたものの新鮮な、ひやっとするような冷たさに、何度でも驚き、打たれ、突き放されるような感じを、毎回飽きもせずことあるごとに味わいたいのに、面白くなくなってくるというのは、描いたものがむしろ自分に近いところでのっそりと寝そべってるだけで、描いたものそれ自体にはまるで物質感や現実感がなく、そのときの見ている目は全然働いてなくて、脳内でいやらしく先取りされた結果や成果の見返りみたいなものだけが、あらかじめわかりやすくまとまっているような、そういうぼやっとしたものを頭の中で思い浮かべるだけというのは辛い。この自分がちっとも驚いてないのに、自分の想像によって矮小化された他人を驚かせるまでの一連の芝居が設定されていて、描かれたものの内部にあらかじめ組み込まれているかのようだ。計算高く仕組まれているようでいて、その内実はじつに自分勝手で気分に左右された勝手なものでしかないのがわかる。その卑小な根性、目先しか見えない小さな生き物が生き残りたくて必死になって動き回ってるけど、やってる事や考えていることの浅はかさは上から丸見えという、そういうのがつくづく情けなくなる。あくせくして、必死にとりつくろって、商売用の笑顔を顔面に貼り付けて、いったいどういうつもりで、いったい何がしたいんだろう?でもこれはこれで、それなりに苦しんでるんだろうな。そんな風に解釈してあげるくらいの方が良いかもしれない。自分で自分をあんまりことさら悪く言うのも悪趣味だしな。でも少なくともそういう解釈をしてあげるのも自分が自分を見て考えるときだけで、それだと結局は永久に自分の枠の中にうごめく事になる。


絵を描くことの新鮮さを取り戻すためには、まずは絵を描き続ける事で溜まっていく財産を、どんどん棚卸ししなければいけない。ここに本気を出せるかどうかで大きく違う。ちなみに僕はこの「自分内リソース棚卸し」がほんとうに下手だった。若い頃がとくにそうで、むしろ棚卸しなんてやるべきじゃないとさえ思っていたほどだ。そこにはあえて、手をつけない。これが私の財産で、財産が即ち私自身でもあるという、たんす預金的な思想の持ち主だった。これは間違った考え方で、このために僕は自らが何かを生み出すことのできる可能性を大いに狭めたと思う。そういう風に自分を保持・維持するのは、はっきりと間違っている。


絵に限らず何でもそうだが、続けてしまうとどうしても何かが溜まっていく。多くの場合、それは自分に特有の何かで、自分が得たというたしかな質感と満足感があって、再利用も可能で、つまりそれが溜まるというのは自分の中の選択肢が増えるということで、自分にとって決して悪くないことで、たとえて言えばがむしゃらに働いていて気付いたら予想外に預金残高が増えていたような感じに近い。それがまごうことなき自分の財産で、自分の行為によって獲得したものである事は間違いないし、この残高が増えるということはある意味、自由が増えることでもある。それはたしかだ。しかしそれが自分の成果の代償であるのと同時に、自分をさらに展開させるための秘策だと思ってしまうと駄目だ。


秘策として内部保持してしまっては駄目なのだ。自分のやってることが仮にビジネスであれば、それは情報セキュリティ的に管理維持して、きっちりと機密保持しながら事業継続に役立てれば良いだろうけど、自分がやってることがビジネスとは違う何かなのであれば、秘策はなるべく早くに、誰でも利用可能な形式に加工してあげなければいけないのだ。ある意味作品を作ると言うのはその、この私が発見した秘策を誰でも利用可能な形式に加工するための挑戦とも言える。もちろん失敗や見込み違いもあるだろうが、それはそれだ。


こうして書いてしまうと、じつに当たり前の事で、書くまでもないことだと思うが、でも何十年も秘策を蓄えてしまって、今更どうしようもなく価値の失墜した不良在庫を抱えたような状態だと、なんでもっと最初からフレキシブルにやれなかったのかと思う。この言い方だとこの私が抱えているモノの価値を失った、みたいになるけどそうではなくて、価値なんて最初からなくて、なぜもっとフレキシブルにそのときそのときごとに自分がわかったと思えたことや気付いたことや何かを、もっと軽くシンプルに、外の誰彼に向けて出せなかったのかと思う。そんなことして、誰が見てくれるのか、だれが喜ぶのか、そんなことやって何の意味があるか、だなんて、そんなのはどうでもいいことじゃないか。とにかくどんどん出してしまうべきだった。それを自分が自分の中にわざわざ秘蔵して、結果的にはみんな腐ってしまって、台無しにしてしまったのかもしれない。だから、ああ、つまらないことをしたなあと思うのだ。そして今や、何かを描いても、まったく面白くも感じないような気分の中にいて、ああ何とも、自分から出てくるものの、じつに手垢にまみれたぬるま湯のつまらなさだなあ、とつくづく思うのだ。


今日はいきなり夏の日差しが戻ってきた。九月はじめくらいの、やや暑さにかげりが見え始めた頃の感じを思い出させる陽気。太陽のまぶしさはものすごいのに、空気は少し冷たいものを含みはじめたときの感じを思い出す。


昨日、ひさびさに油絵を描いた。去年からやってる美術同好会みたいな集まりで、曇り空のなか写生大会をやって、メンバーに小学生の女の子がいたので、その子に油絵を教えてあげて、教えながら僕も隣でひさびさに描いた。描いたというよりは、画材に触ったという方が近い。油絵に触るのはいったい何年ぶりのことか。油絵科を出たくせに、大学に入ってすぐアクリルばかり使い始めたので、僕の今まで油彩に触ってきた時間はとても短い。でもそれがかえって良くて、描くということの新鮮さを存分に感じた。驚いた。


とにかくすごい匂い。油絵の匂いはほんとうにものすごい。こんなにすごいのか。チューブから出る絵の具の、油で煉ってある質感の、肌理の細かさに驚く。豚毛の筆の硬さの好ましさ、キャンバスに筆を押し付けたときの、手に返ってくる抵抗感にぞくぞくする。そしてキャンバスに多めにがさっと乗せた絵の具の発色の、驚くべきうつくしさ。これはもう、自然そのものを見ているみたいじゃないか。リンシードとかのツヤの綺麗さって、こんなだったっけか。こんなものが層になって重なっていくのか。これはちょっと、ほんとうにすごくないか。


ちょっとの短い時間に描いただけだったが、出来上がったF6サイズの久しぶりの油絵は、自分で言うのもなんだが、おそろしく下手だった。この下手さはかなりのものだ。美術同好会みたいな集まりでは、僕は一応先生的な役割をしないといけないところがあるのだが、たぶん先生が一番下手だった。先生が一番、何をしたいのかわかってない感じ。でも自分が面白かったので良かった。絵を描いて面白いとか思ったのが超ひさびさだった。