Mさんが引用してくださった自分の文を久しぶりに読んで、ああ、昔の自分っぽい…と思う。自分で自分の文章を冷静に突き放した視線で読んでみるといつも思うのは、何だかガタガタとしていて乗り心地の悪い、如何にもな自分の気配に自ら近付くようで落ち着かない。しかしこの情景も、これを書いたときのことも、いまだによくおぼえている。こういう感じを今では書けない気もする。

自分は本来、こんなにたくさん字を書くはずの人ではなかったと思うが、今でも飽きずにこうして書いているのはなぜなのか、理由の一つとして、稚拙だからというのはあるだろう。これは謙遜ではなく、自分で自分の書いたものに、がっくり落胆したりため息が出たり、そんな思いにかられることも多いが、それとは逆に、稚拙で経験不足ゆえに、まだ自分の落ち度や欠点にあまり気付くことができないからというのもある。そういう条件下でやっていると、書くことからのフィードバックが色々あって、だからまだ書いているのだと思われる。

たとえば、絵を描くことの、未だに続くこの行き詰った感じはどうか、ずいぶん描いてない、しかしたまには、おそるおそる、回復の度合いを試すように、その行為をこころみることもある。あるいはふと気が向いたときに、急に思いついたかのように、さすがにこれだけ時間が経てば、身体も妙な癖を忘れてくれただろうと思って、それこそたまたま見かけた文房具屋の試し書きコーナーに設置されてるメモ用紙に、ちょっと早いスピードで幾本かの線を引いてみたりもする。すると驚いたことに、たちまちうんざりした気分がこみあげてくる、まだ全然「汚染」が除去されてないことを悟る。これじゃあとても描けないと思う。このときの「うんざり」を、どうあらわしたら良いのか。性懲りも無くシレッとした顔でもっともらしい子芝居を演じる人間を見て、こっちが恥ずかしくなるような思いに似ているか、だせーな、そういうの、いつまでやってるんだよと、苛立たしく吐き捨てたくなるような感じ、そういうのが未だに自分自身であることの「うんざり」なのか。そういうのが、ひとまず文章を書くときには、まだ無いというだけの話か。

しかし、それなら自分は、絵を描くことを、書くことよりもよくわかって、知っているのだろうか?この流れだとそういう論旨になってしまうが、それも微妙というか、そうじゃないだろうと、前にも考えなかったっけ?そう、でも変に知ってしまったこと、妙に手がおぼえてしまったことを一旦無しにしたい、今までの過程を全部リセットして、レベル1からやり直したいというのは確実にある。でもそれって、描くのをやめても消えないものなのだろうか、むしろ描くことでしか消せないのかもしれないな、というか、消すように描きたい、まさにそんな感じ、それを言ったら、描くも書くもみんなそうか。それはしかし、大変なことだな、あきらめないでがんばりなさいよ、とも思うし、あきらめるというのは幸福へのステップだ、とも思うし。