青梅


昨日は青梅に行った。曇天の日。山々に白くうつくしい霧がかかっていた。アートプログラム青梅という展覧会。青梅市立美術館の二階展示場に入ると右手すぐの壁に古谷利裕さんの作品が並んでいて、並んでいる作品群から静謐な緊張感をただちにかんじた。


絵画を見るときの自分の窮屈さを最近はしばしば感じる。絵の前に立って、画面を正面からじーっと、妙に生真面目に観てしまおうとするのが、一番よくない。一旦外して、ふらふらと歩き回って、時間をかけて自分を調整する。


絵の具は、絵の具である。これはいつでもどこでも、誰であっても、見間違えようのないことだ。実物の絵画を見て、その質感を絵画作品の表面だとわからない人は、ほぼいない。絵画が絵画だとわかるいうのは、いったいどういうことか?それは、絵の具が、絵の具だとわかる、ということである。


絵の具の質感が、そのままその枠内の空間になってしまう。色とか形というのは、色そのものや形そのものとしては把握していなくて、ある落差というのか、切断のショックのようなものとして感じているような気がするが、質感というのは質感そのものとしてしか感じられないのだろうか。異なる質感の落差、というのは、絵画においてあるだろうが、でもそれは異なる質感の間に存在する落差ではなくて、そういう落差としての、ひとつの質感なのではないか。


質感というのは、焦点の合う位置、とでも言い換えられるようなものだろうか。足の踏み場、とでもいうべきものだろうか。それがないとさすがに、あまりにも目まぐるしくて、絵画を観るというのは支離滅裂でハチャメチャな体験になってしまうので、単一の質感というものを拠り所にして、まずは焦点を定める、というか。


しかし、絵の具という物質のもつイメージ喚起力は凄くて、固さ柔らかさの感じや、速さ遅さの感じや、そういうものがあらかじめすべて含み込まれているようだ。最初から絵の具を信用している人間が絵画を観ると、無条件にそう思って観てしまうところがある。絵の具を信用していると言うと聞こえは良いが、それは実際のところ、絵の具に幻想を見ている、絵の具から広がったものを誤解しているだけの可能性が高い。しかし、その罠から自由でいるのは結構難しいことだ。


たとえば絵の具の有様に、ある重さ、遅さ、のようなものを感じるとき、その遅さ、現れかたのスピードを見ているような気になるが、そのスピード感のようなものが、ただちに空間を感じさせてくる。絵の具はまず、瞬時に空間を立ち上げようとする。逡巡しているだけで、もう空間になってしまい、成り立って固まろうとし始める。


僕はそれをまずは頭から払うわけだ。一旦拭きとってしまってからもう一度見てみる。再生環境としては初回のピュアな状態ではなくなってしまうのはいつものことで、これは仕方がない。観る事にもっと習熟していくしかない。そして三分前のところからもう一度やり直して見たり、視界の隅から始めて少しずつ意識していくように見たり、あからさまに油断した態度から見たり、またときには別の壁を見たりもしながら。


僕は不自由である。


美とか、作品とか、フレームとか、絵の具とか、色とか形とか質感とか空間とか、そういうことの全てでもありつつ、そのどれでもない。


目の前にあるものを、ただ見るというのは、なんと難しいことだろうか。