20年


忌野清志郎は1951年生まれということで、僕の丁度20才年上である。僕が、はじめてRCサクセションを知ったのは中学3年(1986)のときで、はじめてコンサートというものにひとりで行ったのは翌年3月の中野サンプラザでやったRAZOR SHARPのライブであった。当日券で入ったのになぜか前から3列目(でもPAの真ん前)で、このときのステージは映像作品にもなっているが、それに映っている清志郎が、紫のジャケットを着てる日のステージを、僕は観てたのだ。その後は、野音も武道館も何とか市民会館とか何とか文化センターとかの近場のツアーとかもかなり観た。これだけ一生懸命追いかけたミュージシャンというのは後にも先にも忌野清志郎(RCサクセション)だけである。


しかしその当時、つまり1980年代後半というのは要するに、忌野清志郎は30代後半ということで、今、これを書いてる僕の年齢とほぼ同じということになる。僕も、あれから20年の月日が経過している、というのは、理屈ではわかるが、ほとんど信じられないような気持ちである。そして、あれから20年の月日が経過して、忌野清志郎が58歳になり、昨日亡くなってしまった。それを、37歳に僕がニュースで知る、というのも、もはやすべてが、まったく信じがたい話である。


そして、いまから20年後には、僕も58歳になるのだ。58歳で死ぬかもしれないし、もっと早いかもしれないし、もっと遅いかもしれないが、確実なのは、いつか死ぬということである。酷い話だ。だから後悔のないように精一杯生きましょうとか、そんな話を真に受けられる訳がない。そんなバカバカしい話はない。


それは結局、逆算できるようなものでもないし、あらかじめ「貯蓄」しておいて後悔しないように「万全の備え」ができるようなものでもない。むしろ、その日一日をいっぱいに生きて、その日一日ですべて使い切る事を、ひたすら毎日繰り返すという事でしかない。それは聖書に書いてある「何事も思い煩うな、ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。」というような事になるのだろう。神に感謝、というのは、信仰をもたない者には理解できないのだが、でも逆に、信仰をもたない事など不可能なのだから、神じゃない何かを信仰しているのだろう。だからそれはそれで良くて、それに対して、感謝して自分の求めを告げる毎日というのを送らないといけない。


しかしまあ、…当時17歳だった僕が今の僕を見たらどう思うか。「うわー37歳なの???」とか言われそうである。単純に年齢の事だけで驚かれそうだ。17歳の人間にとって、37歳などという概念はほとんど宇宙の果てみたいなものだろう。。