Sucking the 70


 今朝は中目黒に着いたのが8時15分だから、いつもより15分早い。中目黒着が8時35分。

 いつもより早かったので、新高島駅から歩いて会社に行った。天気は良かったけど、あの辺はビルが高くて風が強くて散歩していてもまったく快適じゃない。つまらないことをしてしまった。

 なんだか早かった。この一週間。というか、二月が早かった。これでよかったのか。

 40歳半ばくらいまでは、なんだかんだ言ってもまだ、全然若かったなあと思う。さすがに70歳を越えると、身体のあちこちにガタがくる。毎日を平常に暮らすということさえ、なかなか大変なことになってくる。

 「身体のあちこちにガタがくる。」だなんて、なんと紋切り型の、手垢にまみれた言い方だろうか。そんな言い方で、誰が今この僕のおかれた状態を想像してくれるだろうか。

 もともと僕は、昔から、子供の頃から、人間はこうして生まれてきて、子供の頃はまあそこそこ楽しいけど、禁止されていたりする事も多く、大人になったらそういうのも大体解禁されて、年をとればとるほど、生きるのが楽しくなるものなのだろうと思っていた。子供心に、それを疑いなく信じていた。

 そして、それは20代、30代を経て、やはり正しい予想だったと思った。20代、30代が無条件に楽しかったかというと、べつにそうでもないが、しかし子供の頃想像したような、最初は制限のかかっていたものがじょじょに解除されていき、世界の自由度が増すという事自体は、ほんとうだったし、だから予想それ自体は正しかったのだ。問題は、その解禁によって、いよいよ夢見ていた何物かへ直に触れたとき、じつに無味乾燥な、ああコンナモノカ、というような気持ちにばかりおそわれたことで、それは自分自身のせいなので仕方のない事だが、まあとにかく年をとれば取るほど、世の中は開けることのできる引き出しが多くなるでかいタンスのようなものになった。

 でもあっという間に、40代が終わって、50代も終わった。50を過ぎたら、もうあんまりどの引き出しも、ほとんど開けなくなってしまった。それで60代も過ぎて、もう70歳を過ぎた。気がつけば、「身体のあちこちにガタがくる。」という情況になっていた。

 そうなると、世の中の引き出しなんてもはや、まったくどうでもいい、何の価値もないようなものにしか思えない。大事なのは、ただぼんやりとしていてもいっこうに苦しくもないし痛くも痒くもない身体だ。いまの僕の身体は、ほんのちょっと動いただけで、胸の周りが膨れ上がったようにふわふわと膨張して、呼吸が苦しくなって、両手も両足も感覚がなくなって冷たくなる。それで、じっとしてないと、そのまま頭の中が真っ白になってしまって、身体全体の脈拍が面白いように不整になって、しまいにはほとんど、何分の一かの確率で、気絶するか倒れるか死ぬか持ちこたえるかのギリギリの瀬戸際に追い込まれるのだ。最近は、午前と午後の一回ずつ、一日合計2回、この死ぬかもしれないギリギリの瞬間を乗り越えているのである。

 まったくこんな風に年をとって死ぬことばかり考えることになるとは、5、6歳の頃は想像もしなかった。だって、70歳になって、死ぬかも、ということを恐れているだなんて、こんな馬鹿馬鹿しい人生もないじゃないか。70年もかけて、それを恐れるために今まで生きてきたみたいじゃないか。でも、今現にこわいんだからしょうがない。まったくつまらないことになったと思う。明日やあさってには死ななくても、らいねんか再来年か、遅くとも5年以内には死ぬだろう。むしろそれ以内に死なないと、それ以上生きたら、かえって悲惨だ。とはいえ、こうしてここに居ること以外に、何かできるわけでもないし、こうsいていつまでも色々とぶつぶつ言うくらいしかできない。

 自分が年老いるということを、よく考えていた。漱石の「思い出す事など」で、病気で苦しんでいる主人公に、はげしく感情移入、というか、身体移入してしまって、ほとんど、数年後の自分が、その苦しみの中にいるような、そういう想像のなかにいた。

 今週は谷崎の「鍵・瘋癲老人日記」を読む。「鍵」は、主人公が脳梗塞で倒れたあたりで完全にシンクロしてしまい、電車の中で意識を失うかと思った。なんか、何にもまして、この脳梗塞治療の描写がものすごい迫力で迫ってくる。うーん、すごい、すごい、年を取るっていうのは、こんなにも自由で、こんなにも過酷か。こんなにも苦しくて痛くておしっこも出なくて呼吸も止まるものか。ああ、40歳くらいまではまだぜんぜん良かった。中年までの悩みなんて、悩みのうちに入らないじゃないかとさえ思う。

 「瘋癲老人日記」は・・・これはもう・・・とにかくラストまで、あと数十ページになってしまった。明日、午後になる前に、読み終わってしまうのだろう。ああ、これが…もう何も言えない気持ちの数日間を過ごした。ほんとうに、この爺、おまえたった今死ねよ、という気分と、笑いたい気分と、情けない気分と、手足の痛みや下がらない血圧の物理的恐怖が、すさまじい勢いで自分の上に圧し掛かってくるようで、ほとんど、自分が電車の中で立ち眩みながら、ふらふらになりながら読み進んでいる。

 なんかもう、「やりやがったな」というか「ふざけんな」というか、「ばかじゃないの」「上等じゃねえか」とか、そういう感想の出てくるような作品だ。まともに来られた感じ。喧嘩を売られた感じというのか。すごい挑発された感を感じている。