ルーブルのセザンヌ


 季節が過ぎてしまって、みかんはもう、でこぽんもはっさくもいよかんもあまり売ってない。でもグレープフルーツはよく見かけるので、買ってきて、食べるのだが、おいしいと思えるのはなかなかない。みんな酸っぱいのだ。グレープフルーツ特有の苦味と甘味の絶妙なおいしさを感じさせてくれるのに出会うのはかなり稀だ。

 今日も水泳しようと思って横浜駅西口を出て歩いてそのまま間違えてレコード屋に行ってしまった。ちょっと見てすぐプールへ向かうつもりだったが、結局今日は水泳は休み。

 The Miles Davis QuintetのLive In Europe 1967中古を買う。3300円で、まあ安い方だろうと思ったが、同価格で、amazonなら新品が買える…。なんとなく勘違いで、1967ならLive At The Plugged Nickelより古いと思い込んでいたのだが、Plugged Nickelは1965年だった。同クインテッドの2年後の演奏ということになる。曲もfootprintsとかやってるし、これは楽しみ。

 あとはRoland KirkのLeft & Rightと、Natural Black Inventions-Root Strataの2枚。1969年と71年のもの。はじめて見るジャケットで、Roland Kirkに外れはないだろうと思っての2枚買いである。

 ガスケの「セザンヌ」で、ルーブルセザンヌがヴェロネーゼの絵を大絶賛していて、再三「ねずみ色」の話をしているのだが、これが、僕は、ただの勘違いかもしれないのだが、なんだか、ここでセザンヌが云おうとしていることが、すごくよくわかるような気がしてしまう。「結局、私は確信しているんだが、下地が、下地の秘かな魂が、すべてのつなぎになって、全体にあの強さと軽快さを与えているんだ。薄ねずみ色で始めるべきだ。後からは、ヴェロネーゼは思う存分したいことができたのだ、」ここでセザンヌは下地という言葉で技法の話をしているのではなく、色彩の話をしているのだと思う。色彩の発光の度合いの、あまりにも上手く行ってしまう土壌としての「薄ねずみ色」。その目の前に展開する見事な色彩の調和と交歓の出来栄えを、「薄ねずみ色から出発しているからだ!」といって言いあらわしたいのではないかと・・・。これはもう、僕が頭の中で想像して、(そう、あの、いい感じ、色の、すごく良い調和の感じ。)ということで、勝手に思い浮かべて、そう思っているだけなのだが、そういうことなのではないかなあと思う。セザンヌの渋い趣味。ヴェロネーゼでありドラクロワでありプッサンであり、ムリーリョもジョルジオーネもアングルも悪くないと思っていて(アングルは素晴らしいけど弟子やドガは何かが足りないと言う。)すごく保守的でまっとうな絵画の趣味だとも思えるが、そこに何を見ているのかというと、それはやはり色彩の調和、というか、色と形の渾然となった、絵画の上で生成するあの調和、としか言いようのないある種のあらわれ方、のことなのだ。セザンヌは新しい方法論を遣う画家の絵に対しても、これらが、どこから来たものなのか、何をしようとしているのか、何が足りないのか、何が失われてしまったのか、といった観点から鋭く批判する。揺らぎのない方法で出来上がった、たとえば浮世絵とかにも批判的で、とにかく色彩、その場で生まれる調和の度合い。とにかくそれを最大限に煌かせるために、かつてのヴェロネーゼのように、どれだけのことができているのか?ということを見ている。