木場

ダムタイプの展覧会を観に行かなければと思って木場の現代美術館へ向かう。清澄白河駅に着いたら、美術館までの景色が、なつかしいようなそうでもないような、途中の商店街も、雰囲気が変わったようなそうでもないような、何か不思議な感じがする。景色だけではなくて、通りを行き来する人々の雰囲気も、今まで自分の記憶にあった感じと微妙に違うような気がする。とはいえ前回木場の美術館をおとずれたのは昨年四月のことだし、それ以前になると美術館自体が長期休館していたせいでもあるがもっと大きく間隔が空く。いずれにせよさほど自分の記憶にあるわけではない景色のはずだが、しかしこの二、三十年といったスパンで考えれば、さすがにこれまで何度となく訪れてはいる場所の一つだし、そのくらいのスパンで記憶を参照したうえでのこの感じが、今日の不思議な違和感なのだ。ともあれ景色にもまして人が違う。これは要するに、人々が若いということじゃないかと思う。単純な話。たぶん同じ方向に向かって歩いているから目的地も同じなのだろうが、本来自分らとは生息地が別な、やけに若くて華やいだ人々と共に歩いてる。

やがて建物が見えてきて、それと同時に入口付近を覆う人だかりが見えて思わず唖然とする。あれはまさか、これからチケットを買おうとする行列なのか?いつもなら閑散としてるはずのエントランス手前まで近づくと、はたしてどうやらこれはチケット未購入の人が並ぶ列らしいのだ。それが仮設の柵にしたがって何重にも折れ曲がりつつ館外まで続いているのだ。比較するのもアレだが去年老舗の鰻屋に並んだときの何十倍もの行列である。いくつかの企画展が同時に催されていて、それらのどれかかあるいはすべてが人気を集めているのだと思うが、やはりどうも自分には、今日ここで起きている出来事の一切がよくわかってない、始終その思いだ。たとえば印象派や京都の屏風絵などの展覧会が大人気だから行っても入場できないかもね、などと予想するのはたやすいと考えるが、まさか今日こんな行列を見ることになるなんてまったく予想外だった。いろいろなことが、いろいろと、わからなくなっていくなあ…と思う。

というわけで早々に離脱して木場公園を散歩することに。園内の一角にこじんまりした植物園が設営されている。ほとんど何も咲いてない荒涼たる花壇の区画に沿って、寒々とした冬の景色のなかを歩く、この我々夫婦の習性というのか、宿命というのか、これも不思議に謎めいた反復に思うのだが、なぜ我々は毎年毎年、真冬の植物園に慣例の如く訪れるのか、少なくとも真冬の屋外であれば大抵の植物が生息活動を沈静化させていて、結果として園内ほとんど見どころも無い、商品がほとんどありません的な、あたかも災害翌日の食品売り場のどの棚もすっからかんみたいな様相を呈していて当然だ。枯淡とか虚無とか諸行無常とか、そんな心象を味わうにはふさわしいかもしれない、とまで言うと大げさでこの時季でもスイセンとか梅とか、春を待つ冬芽だとか、数少ない見どころはあることはあるが、しかし黒黒と広がる、所々朽ちた枝葉の散らばった冷たい土の上に、ひたすら植物名の立札だけが白く突き立っているばかりなのを見てると、これはほとんど墓参りに近いなと思う。まあ我々の場合、青山霊園とか谷中墓地だって目的もなく散歩するには絶好のコースだと思ってるフシもあるので、やってることは今日もさほど変わりないともいえる。そういえば今シーズンは未だ行ってないけど、冬になると板橋区の赤塚植物園に行くのも恒例だったなと思い出す。あれもまさに、なぜわざわざ今…と思うような謎の行動だ。あの夫婦、二人とも頭がおかしいのでは…とか受付係のおばさんに思われてそうだ。

公園を離れ、川沿いを歩きつつ大横川に掛かる二つの橋を渡って歩き、やがて再び美術館の真裏に出た。江東区も水の土地だ。夕食前の時間に軽く寄り道と思って北千住の店に電話したら定休日、もう一軒も休み、退路を断たれた、いや退路以外のすべてを断たれた。大人しく帰宅することに。今日は何もかもアテが外れる日。