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保坂和志のこの文章はマジでものすごくないか。それはたまたま、今酔ってるから、ことさらそう思うのかももしれないが、でも、冷静に考えても、この文章は物凄い。最近、ここ一年か二年くらいの保坂和志は、なんというか、ほとんどムチャクチャという印象を受ける。なりふりかまわないというのか、細かいことを気にする気がまったくないというのか、傍若無人で、突っ込みどころ満載で、細かくつつけば、すぐがらがらと崩れるような、そういう文章ばかりだが、それゆえ、とめどもないというか、奔流のように、生き急ぐかのように、ひたすらたたみかける。ちょっと音楽的である。それはいわゆる、はっきりと仕事を急いでいたある種のミュージシャンの音楽のように音楽的だ。

ある種のミュージシャン、といえば、セシル・テイラーオーネット・コールマン、を、今週はひさしぶりに続けて聴いていたのであった。

彼らの慌てぶりは、いったい何なのか。いや、本人は慌ててないのだ。きっと。マイペースなのだ。録音の機会ごとに、やれることをやっているだけだ。

にもかかわらず、この凄まじい疾走ぶり。このパワー。

セシル・テイラーのCANDIDレーベルでの流れ。このとき、本人の心境はどうなのか。

セシルを聴いていると、これほどの「発展」を実現できたのはなぜなのか、という驚愕を感じると同時に、これほど豊穣で奥行き深い、まるで現実の景色を見るかのような、あまりにも豊穣な楽器が醸し出すバリエーションをみずから実現できたのであれば、そのあとでたとえ誰に何と言われようが、そりゃ自分の見出したこの道を追求するだろうなという、まったく交じり合わない感想が並立して出てきてしまう。

 あいつらはそういうものしか理解することができない。やっぱり生きるとは、つまり文を書くことや演奏することや絵を描くことは、あいつらと戦うことだった。それはここに来ていよいよはっきりしてきた。理解されるのでなく理解させないこと。

たしかにそのとおりだ。この言葉の圧倒的な力には、たぶん僕は今ここから、あるいはもっと以前から、もっと昔から、既にそうしていると云いたい自分を見出す。

 何ものかはもともとなかったというのは本当かもしれないがまったくなかったわけでなく、もともとなかったという考えは違うものとしての像化に力を貸すだけだ。そうでなく文によって文を書きながらすでに本人が書きながら忘れてしまった何ものかを文によって呼び寄せる。いま文で起こっていることを現実とする。どういうことかと言うと、冬の場面を書いたらまず読者が寒さを思い出すのでなく寒くなってもう一枚着る。五十人の人がいたらそれが子どもたちがごちゃごちゃいて騒いでいる教室のように五十人存在しはじめること。統治されざる内面、あいつらが利用できない内面を作ることが芸術の使命であり、それはここからはじまる。




今日も暑いねえ、と口にする。さんざん聞いた、もはや口にする気にもならないような愚かしい言葉。

暑いのにも慣れたねえ、と言うので、

そうねえ。いつも暑いし。慣れたというか、もう、あきらめたね。と言う。

そうね。もう負けたね。完全にやられたということね。

毎日会社へ、通う。駅から、電車で、

たぶん、このままではすまないと思っている。

しだいに情勢が悪くなってきている。

ヒトラーとその部下たちのように、そわそわする。

逃げ支度をしている。