拠点

90年代の保坂和志の文章から漂う、一見とてもおだやかでのんびりしているようでありながら、その薄皮一枚隔てた裏側では怒りの血潮が流れているというのか、従来の文学観とか旧来の価値観に対する強い反発感というか、それで良いとされている既成の感覚を前に、あえてそれと真逆のことをしてやりたい、それで相手の神経を逆なでしてやりたいとでも言うかのような、薄っすらと悪意さえ含んだ攻撃性、そこまで言うと言葉が強すぎるけど、少なくとも自分の書くものに、そういう従来の在り方と同じ匂いが間違っても付かないように、徹底して注意深く、自作品の隅々にまで目を行き渡らせたいと考えているかのような、まるで思春期の高校生の潔癖さのような感触を感じるのは、僕だけだろうか。

それは逆に言えば、90年代くらいまではそれだけ強烈な、反逆の心を絶やさずにはいられないほど充分に強固な「従来の文学」がそびえ立ち、反抗に値するほど「旧来の価値観」が、まだ生きていたことを意味するのだろうか。僕も年齢的にその時代を充分に知っていてもおかしくない筈なのだが、恥ずかしながら90年代の自分はそれを感じ取れるほどには文学に触れていたわけではない。(ちなみに僕は90年代にはまだ保坂和志を読んでない!)そういう「旧来への苛立ち」をおぼえるほど、文学そのものをよく知らなかったとは思う。(というか、それは文学という形式とかそれを取り巻くものらへの苛立ちではなく、この世の旧来と呼ばれるすべてに対する苛立ちでなければならない筈だろう。その意味で僕は、その意気が不足していたとは思う。)

だから保坂和志の小説を読むといまだに(いや、むしろ今だからこそ、かもしれないが)、ふと垣間見えるその攻撃性に慄くような思いをすることがある。そんなに嫌なのか、反発をおぼえるのか…と、内心おどろかされたりもする。しかしそう言う自分だって、いざとなったらこんな悠長なことは多分言ってられないはず。何かを作るというのは畢竟自分以外のあらゆる世界から攻撃されて、それを全身で受け止めるような行為に近いのだから。

じつはそこに旧来とか新時代とかは関係ない、ただの個別的な異物としての私を自覚する、その過酷さを知らずして他人の書いたものを読むわけにはいかないし、その覚悟と緊張が感じ取れない文章よりも、感じ取れるものの方がやはり良いと思う。

ちなみに、過去にも何度か引用やリンクしている保坂和志のけして長くはないこの文章「日々と拠点、またはコンちゃんの話」(2012年)は、ほんとうに何度読んでも、僕は胸の鼓動が早まり居ても立ってもいられなくなるような激しい感動をおぼえる。何事かをあらわそうとする芸術者の気概が昇華されて、高いところで青白く光っているような文章に感じられる。

(最後にコンちゃんのスイートホーム、「ここでさえもスイートホームであることに気がついた」私のところまで読んで、そのとき両者に生じた「共振」から、先日観た「ニンゲン合格」のことを、再び思い出したりもする。)