去年の九月以来だから、約四ヶ月ぶりに水泳をする。泳ぎ始めて、それほどブランクも感じず、とくに普通に泳いでいて、しかし百メートルも過ぎる頃には予想を大幅に越える疲労感が。。こんなに疲れるものだったか?という驚き。しかもまだ、スタートしてから五分も経ってない…。


その後、ひたすらノンストップで泳ぎ続ける。泳ぎながら、数ヶ月前は何かにとりつかれたように、こうして週に二回か三回、ひどいときは連日、今日みたいに泳ぎに来ていたことを思い出して、あのときはいったい、泳ぐことの何にとりつかれていたのか?とつくづく不思議に思う。こんなに疲れることを。毎日毎日、いったいなにが楽しかったのだろうか?


たぶん「もっと速く泳ぐには」の追求だったはず。おそらくほとんどそれを考えていた筈である。別に細かくタイム計測しているわけではないのだけど、要するに身体が水を蹴って進んでいくときの感触が、今よりもっとスムーズで、自分で納得できるような、ある程度論理的に説明できるような動きをすれば、もっと速く泳げるのではないかという、それをひたすら試行錯誤していたから、ああして毎日のように泳ぎまくることができたのだろう。


今は「健康のため」・・・っていうとあまりにもあんまりだが、まあ昨日以前にも少し書いたように「身体内の免疫力維持のため」に、泳いでいる。ということになっている。でもこれでは、なかなか、泳ぐモチベーションにはなりにくいのではないか?と思うだろうが、これが実は、そうでもないのだ。「もっと速く泳ぐには」と考えながら泳ぐときには、頭の中はひたすら、もっと速く泳げているときに身体が感じるはずの感触を想像し続けている。それと同様「身体内の免疫力維持のため」に泳ぐのであれば、泳いでいる間中ずっと、とくに今弱っている口内の状態が、水泳によってどんどん健全なものにかわっていくさまを、それがいったいどういうことなのか具体的にはなにもわからないまま、手探りで想像し続けている。それがまるで、泳げば泳ぐほど、筋肉に乳酸がたまるほど、口の中にプールの水が入ってくるほど、免疫力はどんどん上がっていくイメージが、生成されてくるのだ。たぶんきっと、実際にそのようにして、強い兵組織はつくられるのである。


と言いながら、結局本日の水泳は、開始から約二十分後に終了した。いつもより十分前後早い上がり。しかし、たった十分だが、これを泳ぎ続けるといった場合、その過程はあまりにも過酷で殺人的な時間のはずである。そういう長さなのである。で、久しぶりの今日ではとても無理なので早めのリタイア。それでもほとんどバテバテ。頭痛さえしてくるほどの疲労感と虚脱感。


ずいぶん、身体がなまっていたということである。


しかし、なぜこのような、身体に負荷をあたえることがそのまま喜びになってしまうような感覚が人間にはあるのか。これは近代スポーツ発生以後にはじめて生まれた感情の一要素なのだろうか。