朝たまたま付けたテレビで「禁じられた遊び」を観る。人々が家財道具をもって逃げる。道は大混雑。ドイツ軍の飛行機が低空を飛び、あちこちで爆発が起こる。車が故障して動かなくなって、道を塞いでしまい、後続の人々が怒りだして、車を土手下に突き落とされてしまう。手で持てるだけの荷物を持って、ふたたび逃げる人々の列に加わる。ああ、戦争って本当にたいへんだ。朝の満員電車よりももっといやだ。こんな苦労はもう、絶対にしたくない。あんな重い荷物を持って、大騒ぎして逃げ惑う。うんざりする。疲れるにもほどがある。逃げようとしないで木の陰で人々や爆発を見ている人。恐怖と不安、無気力。ものを考える気もうせる。


乃木坂で「DOMANI・明日展」「アーティスト・ファイル2013―現代の作家たち」を観る。


「アーティスト・ファイル…」利部志穂の作品の空間。縦長の大きな展示空間、頭から少し上の高さに、ステンレスのパイプが、等間隔で梁のように何本も連続して渡されていて、空間の上下を仕切っている。さらに上には、三角形のペナントのようなかたちをした布製のパネルが設置されている。手前と向こうの壁には鏡が取り付けられている。このような、直線的素材でグリッド空間枠といったようなものが、ゆるく仮設されているようでもあり、床の上や、パイプに引っ掛けてぶらさげられた、おもに針金、紙、プラスチックなどの、非常にゆるい、秩序のうすい、そこにあることでの、密度や関係の作用を、もうほぼ結ぶか結ばないか、ほとんど決めがたいゆるゆるな距離感の、ちらばっている。作為を読み取ることのほぼ見放されたようだが、この場にこうしてあることで、ひょっとするとかつてそこには、なにかの作為も意味も、もしかすると論理や効率さえ、その場にて動作してあったのではないか、というような、過去形の意味の残骸めいたものなら、誤解してしまえそうな、そういう余地も感じながら、模造紙のでかい紙を、ぐしゃぐしゃとまげて折り曲げて淵とふちを無造作に、ホチキスやセロテープで止めているとか、細い針金で、くにゃくにゃとした線が、何かのうつわのような形状をあたえられようとしているのかしていないのかの中途半端さで、目の高さの少し上くらいに、浮かぶようにして、吊り下げられていたり、足元に、切った針金の残りのようでもあり、無造作に伸びる茎のようなかたちでもある針金、ペットボトルや何かの既製品の破片や何か、上にも下にもあり、足の踏み場は、あるようでないようで、進行方向にものがあるのか無いのかもわかりにくく、下や上を見回しながら少しずつ進む。


最初に大雑把に取得しているパラメータとしては、色と、形態と、温度、感触の想像、距離感などか。ほんの少しだけでは、その場にて、みたものの意味と意味がまったく関係を結ばず、ただそこに居ることだけだが、それらの素材の、あまりにもそのままのぶっきらぼうさ、救いの無さ、しゃれにならなさ、興ざめな、楽しくない、しらふに戻るしかないような感じになり、それはいつも、こういうものを用意してしまう意志のあることを、逆にすごいと感じてしまうほどだが、今回にかぎらず、いつも観始めて、最初にあきらめがくる。見ていても、何に使うのかわからないデータが脳のなかにたまって、ある程度になって、少しこまって、うぁーやれやれだ、なんにもないわ、と思って、しばしぼんやりする。そうしてしばらくそこにいるわけで、たぶん一旦、最初に見たことは捨てられており、その後、数分後か十数分後に、ゆっくりと再体験のフェーズが始まる。


そこにしばらくそうしていると、距離、かたち、関係といった、言葉でそう書いてしまうのはじつに簡単だが、実際にはなかなか捉えがたいそれらへの、自分自身を通じた、やり取りのトライ、リトライの繰り返しがはじまる。まず、見えにくいものが見え始める。単に近づいて、細い針金の前方にぶら下っているのを見る。見るというか、その向こう側を見ているというのか、前後左右を気にしているというのか。確認しがたいものは見ているが、直線とか、鮮やかな色は、目に入ると、認識しやすいがゆえに、逆にかなり、無視してしまうような感じになる。というか、目をそらしても残るだけのものと、見ていても残りがたいものとのバランス配分を調整していき、結局はそこでの自分の振る舞いかたを自分なりにさぐるようなことになっていく。


面白さとか快適さというものとはまたちょっと違う、この空間に自分の内側が影響されていく感じ。この感じというのが、いつも、思い出して、ああだったこうだったと書くことができないので、書ける事としては、ここまででしかない。とにかく、その場でないとはじまらないものが、その場にある。


このように、みはじめて、数分後か十数分後に、最初とは違う経験をすることになるような作品は、今日観た中では利部志穂の作品しかない。