今日も冬のように寒い。映画を見に行ったりしようと思っていたけど、一日家にいた。読書で過ごす。途中で買い物に出たが、手がかじかむほどの寒さ。しかし、真冬とは何かが違う。もっと分厚いコートを着ても良いはずなのだが、いつもの薄いコートで歩いていて、とくに問題ない。暖かい冬と寒い春というのは、たと気温が同じだったとしても受ける感覚としては違うものだ。


春なら春の食べ物を食べたいとは思う。今なら、ふきのとうとか、たらの芽とか、タケノコとかがおいしそうだ。でも、ふきのとうとか、けっこう高い。すごく高いわけではないけど、なんとなく、手を出しづらいような値段に感じる。あと、タケノコは、どうも出来不出来がよくわからないというか、やはり、わりと高いし、そのわりには、食べられるところが少ないというか、それに茹でるのもけっこう面倒くさいし、まあふつうのスーパーで買っても、なかなか満足できるようなおいしいのには出会えないような気がして、そういう意味では、なんとなく買いづらい。やっぱり、できれば外で食べるのがいいと思ってしまうのだが、その季節ごとのタイミングで行けば、それなりにちゃんと、そのときの食材での料理が出てくるはずで、だからもっと外食したほうがいいと思っているのだが、外食すると酒を飲むので、相当高くつくので、それはまあ、困るといえば困る。


休日の、今日食べるものを買い物して帰ってきて、夕方になったら風呂に入って、そのあと食事の支度をはじめて、という、今まで何度となく繰り返されてきたこのパターンは、きっとこのあとの人生においても、ずっとひきつづき、繰り返されることだろう。ぼくにとってそれは、手放したくないものであり、いまの生活は、これを維持していくためにあると云っても、きっと過言ではないのだろう。


ブログを書こうとするとき「あー面倒くさいなあ」といつも思っているが、書き始めて、なんとなく、するすると書き連ねているときの感じの、たぶん快感と言ってもよい様なある種の感じが、じょじょに高まっていくときは、書く人なら誰でもあるのだろうが、やはり不思議な高揚感だ。この、自分の意志ではなく、外側から何かに操作されているかのような、不思議な不自由さの愉悦感はいったい何なのだろうか。これはけっして、自分個人の力が自由に動かせていることの快感ではない。むしろ、自分自身の限界的な、外側の枠の内側に、自分が始終触れているような、それでも直接は触れてこない不思議な意志のようなものに上から引っ張りあげられるような感覚がずっと続いて、誰の意志ともわからないままに、何かが書き連ねられていくのを、黙ってほとんどぼんやりと傍観しているような感じだ。今日もそうだし、いつも、しょうもないことばかり書いているとは思うが、たしかに書いている内容はしょうもないのだが、それ以前の、言葉を書いて組み上げていくときの、特有の感覚のことをここでは言っている。


人の文章を読んでいても、最近はほとんど、じつにどうでもいいこと、と言うと失礼だが、もう書き出しの一行目から二行目とか、「今日は○○に行って、そしたらこれこれで、あこうでああで・・・」みたいな箇所とかだけで、けっこう、ハッとするというか、「そういう言い方でもいいのか!成り立つのか!!」と驚いたりする事も多い。とくに、すごく乱暴に省略してある、というか単にぱぱぱっと書いてあるようなものが、すごく新鮮な驚きを感じさせてくれることが多い。